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May 03, 2013

翔んだ割腹

本日の話題にこのダジャレは不謹慎すぎるのですが。

話題の映画「セデック・バレ」を観てきた。

日本統治時代の台湾で昭和5年に発生した原住民族セデック族の武装蜂起事件『霧社事件』を題材とした作品だ。

初めに文句を言っておくと、とにかく長い。
「第一部 太陽旗」が144分、「第二部 虹の橋」が132分、合計276分=4時間36分だ。
しかも、映画館はこれを入替え制で上映していて、上映のインターバルが25分ある。
合わせると5時間を超えてしまう。
そりゃ客が20人ぐらいしかいないわけだ。

ただ、長いのには理由がある。
何しろ、日本による台湾領有以前から話が始まっているのだ。
日本統治時代以前の自由に山野を駆け巡っていた時代から始まり、日本の台湾征討軍との戦闘を経て、鎮圧されるまでをまず描き、日本人による“文明化”という圧迫に抗して蜂起するまで、が第一部。
一方の第二部は時間の幅は短く、蜂起から日本軍との激戦、そして終息までを描く。

台湾では大ヒットしたというが、日本人としては、いささか複雑な気持ちになる映画だ。
まあ、日本軍はバッタバッタと殺されますからな。
登場する日本人は傲慢か、狡猾か、どちらかだし。

作中の日本人の“蕃人”への対し方は、極度の蔑視から友情を築いているものまで、濃淡はあるが、結局のところ『文明』に醇化しない『野蛮』なものへの差別意識に囚われている。

しかし、それでも、かなり公平に描かれているのではないかと思う。

日本人が“ワルもん”であることから、『反日映画』などと受け取る日本人もいるようだが、それは自意識過剰というものだろう。そうでなければ罪悪感か。

鎮圧部隊の隊長である鎌田弥彦(河原さぶ)が、抵抗に業を煮やして毒ガスの使用を決断する際に「文明を与えてやったのに、我々を野蛮にさせおって」とつぶやく。
また、この鎌田弥彦は、着任の際にはセデック族を管轄する警官が彼らを「戦士」と呼んだことを難詰し、それを否定したが、鎮圧部隊の撤収の際には、「日本で失われたサムライの魂がここにあった」とまで称賛する。
それらの場面には、『文明』と『野蛮』とは簡単に決められるものなのか、という問いかけがある。

つまり、この映画は、異なる文化が出会った時に、そこに支配関係というものが持ち込まれると何が起こるか、が描かれているに過ぎない。

史実をもとにしているので日本人が“ワルもん”枠に納まっているのであって、自文化の優位性を唱えて異文化を支配しようとした経験を持つ者ならば、欧米人であれ、漢民族であれ、そこに納まりうる。

そもそも、主人公はセデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオだが、単純な英雄としては描かれていない。
誇り高いが、攻撃的で、横柄で、同じセデック族の中にも敵が多く、必ずしも好感の持てる人物ではない。
まさしく『野蛮』である。

霧社事件の蜂起にしても、“蕃人”を圧迫してきた警官たちはともかく、女子供を含む非戦闘員まで皆殺しにするわけだから、アクション映画のもたらすカタルシスとは程遠い。
まあ、これは史実だから脚色しようがないが。

とりわけ、武装蜂起の際、事前には知らされていなかったセデック族の子供たちが蜂起に興奮し、普段からセデックの子供たちを殴りつけていた蕃童教育所の教師を殺害し、その勢いで日本人の母子をも殺害するというシーンは、正直イヤな気分になるシーンであった。

逆に、思わず落涙してしまったのは花岡一郎の死の場面。
花岡一郎はセデック族だが台中師範学校を卒業し、日本名を与えられた人物。
霧社で巡査をしているが、日本人巡査よりも高い学歴を持っていながら、彼らより低い扱いを受けている。
彼自身はセデック族のかつての首狩りなどの風習を野蛮と考え、同胞たちを教化しなければならないと考えているが、しかし、いくら努力しても日本人より下に扱われるという現実の壁も痛感している。
同様に日本式の教育を受け、日本名を名乗って警察署で働く花岡二郎と共に、武装蜂起の手引をするが、モーナ・ルダオ達とは行動をともにせず、自決する。それも自らの手で妻子を殺害したうえで。
そして問うのだ。
「俺が死んだら虹の橋の向こうに行くのか、日本の神社に入るのか?」と。
虹の橋の向こうというのは、セデック族の死後の世界のことである(映画の設定なのか、実際のセデックの死生観なのかはわからないが)。
つまり、自分はセデック族として死ぬのか、日本人として死ぬのか、というアイデンティティの問題だ。

「欧米人は植民地の民に教育を与えず搾取したが、日本は教育を与えた」という言い回しは、戦前の言論の中にも出てくるし、現在もそう主張する人はいる。
しかし、努力して勉学に励んでも、日本名を与えられても、「蕃人は蕃人だ」として差別され続けるのなら、その教育の意味とは何なのか。
別の場面ではよりストレートに、「俺は天皇の赤子か、セデックの子か?」とも問うている。

一郎の問いかけに対し、二郎はこう答える。
「どちらでもない自由な魂になれ」

そうであれたら素晴らしいが、そうはなれないのが世界である。

セデック族の女達は、勝ち目のない戦いであることを覚悟し、集団自殺する。
その死に方は首つりだ。
花岡二郎も首をつる。
だが、花岡一郎はセデック族の衣装ではなく、わざわざ和服に着替えて、山刀でではあるが、腹を切る。

心に残るシーンであった。

さて、この映画ではセデック族の役には、出来る限りセデック族の者を配し、セデック族だけでは埋めきれない部分はタイヤル族やタロコ族の者を配役したという。
そのため、本職の役者ではない人物も多く含まれているのだが、主役のモーナ・ルダオを演じたのが、素人だとは驚いた。
青年期と壮年期は別の人物が演じているのだが、壮年期を演じたリン・チンタイは、タイヤル族の現地教会の牧師だそうだ。
牧師にしては暴力的な役柄だが、風格があって、素人とはとても思えなかった。

セデック族同士の部落間の闘いや日本軍との戦闘のシーンは、迫力と高揚感があって、とてもいい。
活劇的過ぎて、作品のテーマを忘れそうになるくらいに。

巨費を投じた霧社やセデックの村のオープンセットもすごい。

それだけに、日本軍の飛行機(複葉機だ)のCGがショボく見える。
あと、頻繁に登場する首が一刀両断されるCGも、違和感を覚える。

そういう気になるところも多々あるが、観ておくべき映画だと思う。

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