赤ひげ新庄タン
新庄がひげを生やしても、風格は出ないだろうな。
えー、あけましておめでとうございます。
「山本周五郎戦中日記」(2011年12月18日 角川春樹事務所)という本を読んだ。
山本周五郎と言えば、私のイメージでは直木賞受賞を拒絶したり、吉川英治の作品をきっかけに神格化された宮本武蔵を「よじょう」という作品でコケにしたりという、反権威的な硬骨漢というものだったのだが、これを読んで、いささかイメージが変わった。
あらかじめ断っておくが、日記の内容は戦時下の生活をつづったもので、いたって真面目で真剣なものなのだ。
連日発令される空襲警報に対し、地域の防空班長として、地域住民の避難などに尽力しつつ、そんな中でも小説を書き続けようともがく姿や、空襲の恐怖がもたらす切迫した死への想いに揺れる姿は、真摯で、深刻なものだ。
にもかかわらず、その読後感は、≪自意識過剰な派遣OLの痛いブログ≫を読んだみたい、というのが、偽らざるところなのだ。
その原因は、一にかかって、「がんばれ」という言葉の多用による。
食事后、机に向う、がんばれ。(P125)
河原から薯を呉れたので、食べて仕事にかかる、今宵はクリスマス・イーブである、がんばれ。(P139)
煮直したスキ焼で夜食、続稿だ、さあ幾らでも来い、がんばるぞ。(P150)
夜食してこれから仕事、朝までにあと十枚なり、がんばれ。(P170)
などなど、これは一部に過ぎない。
さしも文豪山本周五郎も、21世紀の今日、「がんばれ」という言葉が空疎で上滑りしている言葉の代表格になっているとは、想像だに出来なかっただろう。
「がんばれ」という言葉に失笑してしまうのは、現代人の悪い癖だ。
とは言え、
ゼヒとも続稿し終ろう。その後で年越の麦酒をやるとして、――しっかり周五郎。(P149)
次ぎは「婦道記」をやる、また当分のあいだみっちり仕事だ、それが己の全部である。「しっかり周五郎」。(P187)
という表現を見ると、その日一日のイヤな事や派遣の身分の不安定さを散々愚痴った挙句に、「ワタシ、ガンバ!」とか書いてるのと、どう違うのか、事態の深刻さは雲泥の差かもしれないが、メンタリティは変わらないんじゃないか、と思ってしまうのだ。
もうひとつ、申し訳ないが、この人物は無類の女好きなんじゃないか、との思いが浮かんできて、消すことが出来ない。
いや、山本周五郎に女性スキャンダルがあったとは聞かないので、むっつりスケベと言い換えた方がいいかもしれない。
例えば昭和18年10月23日、丹野という女性(所属不明)が原稿を取りに来るのだが、
二十三四であろうか、成熟した非知的な女で、盛を過ぎた沈丁花のような体臭を放つ、眼尻が下って唇許に緊りがない、五反田あたりの女給という感じである。
などと描写している。
あるいは、昭和19年3月16日には
女記者山口慶子、二十一、二のいいからだつき、おとなしくしとやかで、むすめの初心な匂とかすむような温かい雰囲気をもっている
と書く。
ついでに言うと、そうした良い面が男と伍して働いているうちに消えてしまうことを嘆き、年を取ってもこういう雰囲気を失わなければ「男性に対する魅力は消える時がないであろうに」などと書いている。
当時、新聞社や出版社の記者・編集者は、比較的女性に門戸の広い職場であったらしいが、それでも現在と比較すれば働く女性は珍しかっただろう。
稀少なものに対して好奇の眼を向け、事細かに書き留めるのは、やむをえない事かもしれない。
しかしそれにしたって、「盛を過ぎた沈丁花のような体臭を放つ」とか「いいからだつき」「むすめの初心な匂」というのは≪エロ目線≫以外の何ものでも無いだろう。
そんなわけで、山本周五郎のイメージは私の中で大きく変わってしまったのだが、同時に、その≪凡下≫な感じに親しみも感じたのであった。


Comments
戦中にしてはすき焼きやらビールやら…
Posted by: ぽのぽ | February 20, 2012 at 06:00 PM