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January 19, 2011

時をかける猩々

「猿の惑星」?

ここから山口駅に向かうが、途中、前回は立ち寄らなかった古熊神社に足を延ばしてみる。

石段を上がると、まずはこいつが迎えてくれる。

Hurukuma_2

「文政六/未/十月吉日」(1823)とある。

この狛犬よりも社殿側に、銅製の狛犬がある。

Hurukuma_1

これはどこかで見たようなと思ったら、台座にこうある。

「奉献の詞/明治二十八年大殿小/学校入学同級会員によ/り奉献された狛犬は第/二次世界大戦の際供出/され今日に至りました/このたび平成御大典の/盛儀に当り謹んで奉献/致します/平成二年十一月吉日/奉献者総代雨村寶作/片山忠男/清水健治/清水力/素村栄一/宮司 真庭孝文/鋳造師 高岡市/一ノ瀬高級美術銅器製作所」(1990)

なるほど、同じところで作ったものか。
ん?
昨日の遠石八幡宮のものは≪一ノ瀬美術銅器製作所≫だったが、いつから≪高級≫がつくようになったんだ?
しかし、≪高級≫を自称するなよ(笑)

境内を見渡すと、社殿右手の末社・金毘羅社の前にもう1対狛犬がある。

Hurukuma_3

近づいてみると、コンクリート製である。

もしかすると、銅製の狛犬が再建されるまでは、こいつがあの台座の上にいたのかもしれないとも考えたが、初詣客がそれなりにいたので、神社の方々に質問することは控えて、帰路につく。

しかし、考えてみると、戦前の山口県にはかなり高い割合で銅製(金属製)の狛犬があり、それが供出されたのち、戦後になってセメント・コンクリート製の狛犬に置き換わっていたことになる。

小野田セメントもあるし、セメントで再建したのはよく理解できるが、銅製が多かったのはなぜだろう。

それと今回歩いた範囲では、江戸時代の狛犬がかなり存在したが、その一方で、戦後のものはわずかしか見られなかった。
どういう心境なのだろう。

そんなことを考えながら、12時29分山口駅発新山口駅行きの普通列車に乗り込む。

12時52分に新山口駅に到着すると、コインロッカーから荷物を取り出し、新幹線ホームへ。

今回、12月9日にこの旅行の切符を窓口に買いに出かけたのだが、その時点で、新山口駅からの帰りの新幹線については指定席は4席残っているが、全て喫煙席だと言われたので、自由席にした。

13時06分に東京駅行きののぞみ32号があるが、これは博多発なので、自由席ではどうせ座れはすまい。
そう考えて、敢て、その後に来る13時25分発の新大阪駅行きこだま746号を選択する。

新幹線ホームに立ち食いそば屋があったので、入ってみる。
肉うどんを注文したが、袋を見ると、残念ながら唐山製麺所のものではなかった。
しかし、これも細くて短いうどんであった。

ということは、唐山製麺所のものが特別なのではなく、この地域のうどんはこういうタイプのものなのか。

そば屋のおばさんがよくしゃべる人で、盛んに話しかけてくるので、話の流れで、そのことを聞いてみる。

「ところで、このあたりのうどんはこういう細目のうどんなんですか?」

すると、おばさん、怪訝な顔をして、

「いや、普通のうどんやけど」

なるほど、やはり、このあたりではごく普通に細目のうどんを食しているので、特に細いという意識はないようだ。

さて、こだま746号が到着。

そば屋のおばさんは、こだまでも座れないわよ、と言っていたが、あっさりと座れた(笑)

本当は、これで広島駅まで行き、広島駅始発の東京駅行きのぞみに乗り換えようと思っていたのだが、座れたんなら、多少時間がかかってもいいから新大阪駅までこのまま行って、新大阪駅で、始発ののぞみに乗り換えることにする。

新大阪駅到着は17時05分だが、年始の休暇は5日までなので、急ぐ旅ではない。
何か不測の事態があっても、新大阪駅からなら実家にだって帰れるし。

とは言え、道は長い。

この日は軒並み乗車率が高く、駅での乗り降りに時間がかかるため、ダイヤが乱れている。
そうなると、のぞみの運転が優先され、こだまはひたすら待たされる。

新大阪駅に到着した時間は、記憶していないが、すっかり日は暮れていた。

とりあえず、腹ごしらえと思い、ホームから下のコンコースに降りてくると、駅が改装中でわけのわからない状態になっている。
なんでよりによってこんな時期に?
カレー屋があったはずだと思い、何とか見つけ出して、カレーを食って、ホームに引き返す。

そこから1時間ほど並んで、18時43分発ののぞみ390号に乗車。
21時20分に東京駅に到着。
21時30分にホームライナー青梅があるのはわかっていたが、10分では乗り換えがきつい、切符も買わなければならないし、と考え、21時49分の通勤快速高尾駅行きに乗ることにする。

まだ1月4日ということもあり、電車はそれほど混んではいない。
やれやれ座れたわいと思っていると、発車直前に乗って来た20代後半から30ちょっと過ぎくらいの男女がやって来て、席を動いてくれないかと言ってくる。
たまたま、私の左右が一つずつ空いているので、二人並んで座れるようにずれてくれ、というわけだ。
そのくらいお安いご用ではあるが、こっちが好意でやってやるのならともかく、相手からずれてくれと言われると、ちょっと癇に障る。
まして、長旅で疲れているので、思わず、横にずれながら、「ああ、めんどくせぇ」と口に出してしまう。

大人気ない。

しかしだ、わざわざ人をどかしといて、四ツ谷駅で降りるって、どういうことだ。
神田―お茶の水―四ツ谷……3駅じゃないか。
いい大人なんだから、その程度の短い区間しか乗らないんなら、立ってろよ。

そう思いつつ、イラつき過ぎだと自戒する。

結局帰宅したのは日付の変わる頃。

微妙にハイになっているので、就寝したのは3時過ぎだった。

かくして、収穫もあったが、疲労もかなりなものになった旅は終わるのであった。

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Comments

高岡銅器についての蘊蓄
元々あの辺りの銅器(っていうか鋳物)の産地は能登の中居(穴水町)という事になってました。
16世紀の末に前田利家が金沢に銅器職人を呼び寄せ馬具や装飾品を作らせます。
一方中居では製塩が盛んになった能登の製塩業の為に塩竈生産が増加します。
生産が追いつかなくなった為に17世紀初頭に前田利長が高岡へ職人を呼び寄せます。これが高岡銅器の始まり。
続く

Posted by: ぽのぽ | January 23, 2011 at 01:49 PM

続いた。
江戸時代、能登で生産された塩は加賀藩の重要な移出品として、どんどん増産され、それに従い中居、高岡の釜も増産された。
因みに釜は生産者に売りつけるのではなく、塩の生産者に貸し付けて売上の一部をレンタル料として貰ってたそうだ。
高岡の銅器産業は順調に成長し、江戸時代末期には藩の鉄砲も受注するようになった。
しかし、明治維新である。
開国により塩竃の生産は下火になり、鉄砲や大砲の注文も来なくなり中居や高岡の銅器産業は下り坂へと向かう。
もっと悲惨なのは金沢の職人さん達で、彼らは主におサムライさんを相手に商売していたのに、そのお侍さんがいなくなってしまったのであった。
仕事が無くなった金沢の職人さん達は高岡へ移り高岡の職人さん達に装飾技術を教え、大物を得意とする高岡銅器に芸術性が加わり、銅像やら寺の鐘等に活路を見出したのであった。
一方中居の銅器産業は廃れる一方で大正時代には千年の歴史に終止符が打たれるのであった。
ちゃんちゃん。

Posted by: ぽのぽ | January 23, 2011 at 06:01 PM

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