卒業写真のあの人はやましい目をしてる
こいつにヤリ逃げされたのよ、よく卒業式に出てこれたもんだわ。
阿里山と言うと、以前、「台湾の風景」(田村剛 雄山閣 昭和3年12月25日)という本を古書店で購入した。
前に触れたこの本と同じで、海外神社についての情報が何かないかと考えて購入したものだ。
古書店の目録でこの書名を見つけた時、台湾の写真帖か、最悪でも台湾の各地の様子を描写した随筆だろうと踏んで注文したのだが、手に入れたものを見ると、著者が台湾を旅した際の紀行文であった。
まあ、当たらずと言えども遠からず。
ただ、単なる紀行文ではなく、そのため神社の描写はあまりなかった。
私はこの著者のことをよく知らなかったのだが、実はWikipediaにも項目が立てられているくらいの、その道では名の知れた人らしい。
東京帝大農科大学校卒の林学博士で、専門は造園。
≪国立公園の父≫なる異名もあるそうだ。
その田村博士が台湾に赴いたのは、台湾総督府からの依頼で、阿里山の風景調査を行うことが目的であった。
田村博士はその意図を、阿里山鉄道の状況にからめて、こう書いている。
最近阿里山材の量も減少して、運材だけの目的では、当分その経営がなり立たないといふので、観光客運搬をも積極的に考へることゝなり、従つて阿里山から新高山へかけての大天然公園計画なるものが唱へられ、かうして此度私の調査も始つたやうなわけである。
調査は本の発行と同じ昭和3年に行われた。
明治28年に日本の統治下となってから33年、阿里山鉄道の開通から16年。
たったそれだけの期間で、めぼしい大木を伐りつくしてしまったと言うことか。
だとしたら、あきれた話である。
ちなみに、阿里山には、当時は日本ではなかなか手に入らなくなっていた巨木が多くあったため、それらが明治神宮の大鳥居(初代)をはじめ、多くの神社仏閣に用いられているそうだ。
関係者は一度、阿里山に頭を下げといた方がいいんじゃないのかね。
もっとも実際に、昭和10年に伐採された木の霊を鎮めるために≪樹霊塔≫というものが阿里山神社の境内に建立されていて、今も残っているということではあるのだが。
それはともかく、田村博士は、そういう目的のもと、阿里山山上を隈なく調査するとともに、阿里山から新高山を登山し、そのまま反対側に下山して、日月潭まで踏破している。
それらを日程の中心として、その前後に台北、嘉義、台南、台中などを訪問している。
そのあたりに神社の名は出ては来るのだが、先に書いたように、神社についての描写は少ない。
例えば、台北の台湾神社を訪問した感想は、こんなものである。
社殿、社務所等は勿論のこと、石段から石燈籠の細部に至るまで、整然と統一ある設計のもとに完成せられたものであるから、内地の神社には例のないやうなすつきりとした森厳さが現はれてゐた。唯、境内を囲繞する森林の手薄なのは遺憾であつた。
突っ込みどころはそこか!
しかし、この本には、悲しい結末が待っている。
台湾で無事に用を終え、内地に戻った田村博士だが、門司港に到着して下関港行きの上陸用ランチに乗り換えたところ、このランチが急に動き出した船を避けようとして別の船に激突し、船に挟まれる格好になった田村博士は右足切断の大怪我をしてしまうのである。
この本は、その療養中に、何も出来ない時間を潰すため、何より、その間は怪我の痛みから逃れられるので、執筆したものなのだと序文にある。
そういう本ではあるが、在りし日の阿里山の姿に興味のある人にはぜひ一読していただきたい本である。


Comments
あまり関係のない話ですが、戦艦長門(大正6年起工)の甲板には阿里山の檜が使われていたとかで。従来の輸入チーク材は高価なので、国産(!)の木材を使うことでコストダウンを図ってみる、という試験的な意味合いもあったそうですが。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00474174&TYPE=HTML_FILE&POS=1
「軍艦の甲板及柱材として年六千石」というのが、どれほどの量なのかはわかりませんが、全体計画の「阿里山の現在年搬出は十四万七千石」というのは膨大な量みたいですね。
Posted by: router | September 01, 2009 at 10:20 AM
routerさん
資料(C)に同様の数字が出ていました。
そして、このペースだとあと20年で原生林をほとんど伐り尽くし、以後は植林した木を伐採することになるとしています。
ただし、植林した木が伐採できるようになるのは昭和35年なので、その間16年は伐るべき針葉樹がない、と書かれています。
そんな(笑)
Posted by: liondog | September 01, 2009 at 09:11 PM