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July 30, 2009

iPhoneください

私も身内をガンで亡くしてますので、おちょくってるわけではありません。

先日、「THE LION-DOG OF BUDDHIST ASIA」(Elsie P.Mitchell 1991 Fugaisha)という洋書を購入した。

英語で書かれているので、英語が苦手の私は、まだまともに読んでいないが、タイトル通り、東アジアから南アジアにかけての仏教が盛んな地域における≪獅子≫について書かれた本だと思われる。

購入する時にちょっと心配したのは、英語圏では中国産の短吻種犬のことも≪lion-dog≫と呼ぶので、それについての本ではないか、という点だったのだが、一応は≪獅子≫の本である。
一応というのは、実は犬の章もあるからなのだが、まあ、大目に見よう。

さて、この本の購入にあたって、いささか腑に落ちないことがあった。

私は、この本をアマゾンのマーケットプレイスを介して、カナダにあるSという店に注文した。

ある時、たまたまこの本の存在を知り、アマゾンで検索したところいくつかの店がマーケットプレイスに出品していることがわかった。
わかった時点では注文はせず、翌日になって、決心がついたのでSに対して注文を出したのであった。

さて、2週間ほどして、Sからメールが来た。

ご注文の本は入手が難しい本なので、いましばらく時間がかかります。時間がかかりすぎると思われるなら、キャンセルできますので、ご連絡ください。

というような内容であった。

いやいや、「在庫あり」になってたじゃん、入手困難って何だよ、と思ったが、考えてみると、他にも出品していた店があるわけだから、いつでも乗り換えは可能だ。
こうなりゃ意地でもこの店に探させるぞ、向こうからキャンセルしてきたら、その時になってから乗り換えても十分手に入るだろう、と考えて、返信せずに置いておいた。

ところが、その数日後、ちゃんとSから本が届いたのであった。
それも入手できましたとの連絡メールもないまま。

まあ、手に入ったのならそれで良し、ということで気にしなかったのだった。

さらに数日、今度はアマゾンから、出品者について評価を促すメールが届いた。

そこで評価のために、私個人のアカウントにアクセスして、おかしなことに気がついた。
既に本が手に入っているのに、『未発送』のリストの中にこの本が入っているのだ。

よく調べてみると、私はSに対し、2日連続で1冊ずつ、計2冊を注文したことになっているではないか。

つまり、Sからのメールの真意は、注文は2冊ですが、1冊は在庫があるけれど、もう1冊は入手困難です、ということだったのだ。

そうと気づいて、あわててSに、1冊は誤注文だからキャンセルしてくれ、だがもし既に発送していたら買い取る、というメールを送ったところ、ご注文はキャンセルしました、カードから引き落とした金額は返金します、という返信があった。

腑には落ちないが、まあ、これで一安心と思った数日後である。

今度は国内のUという書店から、なぜか同じ本が送られてきたのである。

Sには確かに注文はしていた。
だが、Uに注文した記憶はない。
アマゾンからの注文の確認メールも、Uについてはなかった。

なんでこんなことが?

その時、たまたま居合わせた人物に、これこれしかじかで注文した覚えのない本が届いた、と話したところ、その人物がこう言った。
自分もつい先日、アマゾンでCDを購入したら、同じCDがなぜかもう1枚届いてしまった、面倒なので、そのままもらっておいた、と。

そう聞くと、ああ、そんなもんか、という気になって、私もそのまま2冊目も自分のものにすることにした。

ちなみに、カード会社の明細が届いたが、同時期に複数注文を出しているので、どれがどれなのかわからなくなってしまった。
品物が届いた時点で注文確認のメールなどはすぐに削除してしまうし、買ったものの金額などいちいち覚えていないし。

だから、2冊目について支払いが発生しているのかどうか、実はよくわからない。

まあ、そんなに高い本でもないので気にしないが。

しかし、なぜこのようなことが発生したのか、全くわからない。
わからないなら問い合わせろ、という話ではあるが。

ところで、結局2冊手元にある「THE LION-DOG OF BUDDHIST ASIA」であるが、この本自体にも、ちょっと引っかかる点がある。

2冊とも、図書館の本なのである。
図書館の貸し出しカードを差し込むホルダーが張り付けてあり、図書館のスタンプが押してあるから間違いはない。

1冊は“DUBLIN PUBLIC LIBRARY”。
ダブリンといっても、アイルランドのではなく、住所に“NH”とあるのでアメリカのニューハンプシャー州のようだ。
もう1冊は“WILMINGTON FRIENDS SCHOOL LIBRARY”。
アメリカのデラウェア州の学校の図書館のようだ。

図書館の書庫にも限りがあるから、重複のある本などが廃棄されることは知っている。
そういう場合、図書館廃棄本であることを示すスタンプが押されていたりするものだ。
そうしないと盗難本と見分けがつかない。

実際、ダブリンの分に関しては“DISCARDED BY DUBLIN PUBLIC LIBRARY”というスタンプが押されている。
しかし、ウィルミントンの分にはそれらしいものがない。

まさか、盗品ではあるまいな?

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July 28, 2009

相手の弱点

早口で言ったらマイケル・ジャクソンに聞こえませんか?

しかし、この機会にもう少しアル・ヤンコビックが注目されるかと思ったのに(笑)

およそ1年ぶりに≪勉強部屋≫を更新してみました。
引き続き更新する意志はありますが、まずは単発の小ネタで。

長年水没していたネタをサルベージしてみたものの、本編サイトに載せるほどの内容には膨らまなかったので、≪勉強部屋≫の久しぶりの更新に利用してみたという次第。

おヒマならご一読を。

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July 26, 2009

閃光花火

まぶしすぎてどんな花火か目で確かめることが出来ない。

ところで、「スピード太郎」だが、その作品そのものよりも面白かったのが、はさみ込まれていた月報だった。
「少年小説大系」というシリーズの一冊という位置づけなので、月報が入っていたのだが、そこに掲載されている宍戸左行の長女の文章が傑作なのである。

とにかくひどく辛辣なのだ。

「スピード太郎」を連載していた当時、他にも多数の連載を抱えて超多忙な生活を送っていた宍戸左行だったが、その稼ぎに比べると生活は質素だった。
というのも、左行には定職を持たない弟がいて、その弟一家を援助していたからだが、その弟の娘は、左行の援助で女高師を卒業して教師になったが、「墓参りは愚か葬式にも来なかった」。

良いのか、そんな身内の話を公にして(苦笑)

そうかと思うと、読売新聞社に入社して専属で作品を描いていた宍戸左行に対し(「スピード太郎」も読売新聞の日曜付録に連載していた)、朝日新聞社が移籍しないかと誘ってきたが、正力松太郎への義理立てからそれを断ったというエピソードが出てくるが、それに対する感想が、

私は利用する時だけ高給を払い、戦争が激しくなって、批判的な政治漫画を新聞に載せられなくなると、高給を払うのが惜しくなり、自然的に退職するようにし向けた男に遠慮する事はなかったのにと、明治男の節操の高さとお人よしを残念に思っている。

である。
正力松太郎、恨まれてますなぁ。

宍戸左行とは離れた話題で、興味深い話も紹介されている。

宍戸左行の旧制中学時代の恩師で、終生親交のあった内村順也という人物がいるそうなのだが、この人は内村鑑三の末弟にあたるという。
その話すところによると、亡き父親がこれは順也の教育費にと言って鑑三に預けた大金を、鑑三は順也に渡すことなくすべて使い込んでしまったということで、そのため順也は新聞配達などをして自ら学費を作って、苦学の末学校を卒業したのだそうだ。
そのため、順也は晩年になっても鑑三のことを「あのペテン師が」と言って、怒りを抱いていたというのである。

いま検索してみると、内村鑑三は家族に対し、自分か妻かどちらかしか助からない時には“public good”のために自分が助かることにする、と常々言っていたそうだ。
つまり、自分には神から与えられた使命があるので、公のためにも、それを持たぬ者よりも、生きなければならない、というような考え方の持ち主だったようだ。

それから考えると、この弟の教育費のことも、世を救う使命を持った自分がこの大金を使う方が、弟を学校に行かせることよりも重要で価値がある、有効なお金の使い方だと考えたのだろう。

この傲慢さと差別心こそが信仰というものの正体だと、私などは思ってしまう。

しかし、話は面白いが、あまりお付き合いしたいタイプの人ではないですな、宍戸のお嬢さんは(苦笑)

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July 25, 2009

東北で汽笛を聞きながら

ばんえつ物語?
(アリス再結成記念)

以前からちゃんと読みたいと思っていた宍戸左行の「スピード太郎」を読んでみた。

戦前を代表するマンガのひとつで、大胆なコマ割りと動きのある構図で、戦後マンガの先駆をなすものと評価の高い作品だが、読んだことがなかったのである。
三一書房の「少年小説大系」の一部として復刻されたものを、かなり以前に書店で見かけたことがあるが、皆が手に取るばかりで購入しなかったとみえ、新刊本にしてはすっかりくたびれてしまっていたので、結局購入しないでいるうちに見かけなくなった。
それが最近送られてきた某バーゲンブックのリストに入っていたので、購入したのである。

ちょっと長いがあらすじを。

日本人の少年・スピード太郎が、ドライブ(少年なのに自分で運転してる)の途中に出くわしたトラックは、ドルマニア国のスパイが日本国内で盗んできた金貨を運んでいた。
ドルマニア国王には世界の金貨の半分を自分のものにするという野望があったのだ。
その秘密を知った太郎は拉致され、ドルマニア国まで連行される。
しかし、なぜか国王に気に入られ、また、いつも「つまらない」が口癖の姫君を喜ばせたことから、番兵の一人に加えられる。
その姫君が隣国のクロコダイア国に誘拐されるが、太郎がこれを救出する。
実はこの誘拐の裏には、国王の配下の伯爵が御用商人のウント・モウケルと結託して、クロコダイア国に戦争を仕掛け、軍需品で儲けようという陰謀があった。
伯爵はけしからんクロコダイア国を攻撃するよう国王を促すが、国王は国民が死ぬからイヤだと言って拒否する。
業を煮やした伯爵は国王を幽閉し、勝手にクロコダイア国と戦争を始めてしまう。
そこで太郎は、秘密兵器の飛行機を駆使して、伯爵の軍団を攻撃するとともに、国王を救い出し、伯爵を国から追い出す。
国王は反省して、クロコダイア国と和平を結ぶとともに、貯めこんだ金貨を用いて国民のために学校を整備したりするよう命じるが、なんと伯爵が肝心の金貨をどこかに奪い去っていた。
そればかりか、伯爵は王家に伝わる貴重な王冠まで奪おうとする。
しかし、太郎の活躍で伯爵の悪事は破れる。
かくして太郎は揚々と日本に帰国するのであった。

連載は昭和5年から9年まで、足掛け5年にわたるものだったそうだが、途中に満州事変があることなどを考えると、よくぞこの内容の漫画が発表できたものだと思える。

だって、君側の奸が御用商人と結託して戦争で儲けようとするなんて、当時の日本(まあ、それを含む帝国主義国家)を皮肉っているとしか思えない。

宍戸は、もともとは新聞に社会風刺の漫画漫文を書いていたということなので、その視線がここにも反映されているのだろう。

肝心のマンガ表現だが、なるほど大胆なコマ割りや動きのある構図は見られる。

日本で絵を学ばず、アメリカに留学して勉強したことが、もしかすると何か影響しているのかもしれないとも想像するが、そのあたりの研究は、誰かやらないかな?

ただ、コマ割りについて言えば、不定形のコマはごく一部で、おおむねコマは定形であった(ちなみに定形のページは1ページに2列8コマで、やや横長の長方形になっている)。
特に、序盤には不定形なコマ割りが見られるものの、中盤以降は完全に定形になってしまう。

また、コマの枠をはみ出すという、当時には珍しかったであろう大胆な構図も、初めだけで、あとはきっちり枠内におさまる絵を描いている。

初めのうちは色々と実験的な表現をしてみたものの、読者に受け入れられなかったか、編集者に理解されなかったか、あるいは自身が多忙になり過ぎて余裕がなくなったか、何らかの理由で試みを断念したのだろうと思われる。

それとは別に、絵そのものが新聞の風刺漫画風の絵なので、ストーリー漫画としては違和感は大きい。

ということで、先駆的な作品という評価は妥当だと思うが、私個人は表現方法よりも、内容に驚きを覚えたのであった。

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July 22, 2009

周産期医院の資格

NICUぐらいは備えてないとね。せめて13人分。

私の好きな映画として、何度か触れたことのある「十三人の刺客」だが、現在リメイクされているらしい。
近年、黒澤明の作品もいくつかリメイクされたが、そういう流れだろうか。

そんな話を聞いたので、久しぶりにDVDを観てみた。

将軍の弟をカサにきて、暴虐な振舞いを繰り返す明石藩主・松平斉韶だが、将軍はその不行跡を咎めるどころか、次期老中への抜擢を決める。
筆頭老中の土井大炊頭は、それでは御政道が乱れると、表向き将軍の意を受け入れながら、裏で斉韶暗殺を決意し、その実行を旗本・島田新左衛門に託す。
新左衛門は十三人の暗殺部隊を組織し、斉韶の命を狙う。

という話。

さて、このオリジナルの「十三人の刺客」は、大好きな映画だが、私としては引っかかる点もある。

ひとつは配役。
主役の島田新左衛門を演じる片岡千恵蔵が、どうしても違和感がある。
前にもそんなことを書いたと思うが、要するに老け過ぎなのである。
ライバルである鬼頭半兵衛を演じているのが内田良平なので、つりあわないのだ。
調べてみると、千恵蔵は1903年生まれ、内田良平が1924年生まれ。
21歳も違う。
「半兵衛」「新左」と呼び合う関係には見えない。

もうひとつは説教臭さ。
いや、説教くさいと言えば「七人の侍」の方がよほど説教臭くてイヤなのだが。

というか、説教くさいというと、少し違う気はするが、要は西村晃演じる剣客・平山九十郎の死に様があまり気に入らない。
最後の戦いの前に、千恵蔵との会話の中で「死ぬ気の者が生き、生きたいと思うものが死ぬ」というような言葉があるのだが、その言葉通りの死に方をするのが、どうもね。

そういうところが、私好みに変わるなら観たいところだが……

報道によれば、今回、島田新左衛門を演じるのは役所広司。
鬼頭半兵衛は、検索してみるとどうも市村正親らしい。

今度は半兵衛に違和感があるなぁ(苦笑)
三河以来の譜代旗本で、学問も剣の腕も立つ新左衛門に対し、小身から実力で這い上がった雑草の男が半兵衛なのだが、市村ではそんな感じに見えないなぁ。

あと、斉韶公を稲垣メンバーってホント?
わがままで暴虐というのとは別の意味で≪暗君≫な感じではあるけどねぇ。

気になるのは、オリジナルでは最後の決戦は刺客13人対明石藩士53人なのだが、あるサイトでリメイクではそれを「13人対200人」と書いていたのがあったこと。
おまけに決戦の場所が最後に爆破されるとも……

うーん、何かが違う。

いや、違ったっていいんだけどさ。

この作品のリメイクは初めてではなく、何年か前にテレビ版が製作されている。
……いま調べたら1990年だった。ついこの間のような気がしたんだが、19年も前か。うーん……

その時の新左衛門=仲代達矢、半兵衛=夏八木勲というのは、配役的には良い感じだったが。
しかし、観ながら飲んでいて寝てしまったか、後半の記憶がない。
あ、斉韶を演じる立川三貴に違和感を感じて、途中からザッピングしているうちに終っちゃったんだったかな。

まあ、なんにせよ、名作と呼ばれる作品のリメイクは、こういう文句言いが多数現れるから、難しいんだよ(笑)

ちなみに、前回日本で見られた皆既日食が1963年で、今年46年ぶりに日本で皆既日食が観測可能になったわけだが(東京じゃ見られなかったけど)、「十三人の刺客」も公開されたのが1963年で、今年リメイクされる(公開は来年みたいだけど)。

皆既日食みたいに肩透かしにならねば良いが。

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July 20, 2009

隠微な感じ?

いや、私は別にインディラ・ガンジーには萌えませんが。

私の出身高校に野球部が出来て、この夏の地方予選に初めて参加するという記事を見つけた。

私の出身高校にとって野球部創設は、私が在学していた四半世紀前から宿願であったはずだ。
当時、既にそのためのグラウンド用地も確保されているという噂だったが、今ごろになってようやく実現したのか。

私の出身高校は、進学校として知られる一方、その地域ではトップクラスで、全国でも通用する運動部を複数抱えていた。

球技ならバスケットボール、バレーボール。
陸上は京都駅伝の常連校だし、体操は全国制覇したこともある。

スポーツでなければ、吹奏楽も有名だ。

にもかかわらず、野球部創設が宿願だったのは、ありていに言えば、上記の競技でどれだけ有名でも、野球の宣伝効果にはまるで敵わないからだ。

インターハイの体操で優勝した学校の名前を言える人には、まずお目にかからないが、甲子園で優勝した学校について熱く語れる人なら掃いて捨てるほどいる。

進学実績をどれだけ上げても、それはその学校のある域内で評価されるだけで、全国でその名が語られることは少ないが、甲子園に出ればいきなり全国に名を知られる。

とりわけ新聞社は、自分たちの主催している大会なので、たっぷりと報道してくれる。
こんなおいしい話はない。

今回の私の出身高校だって、初めて予選に出場するというだけで、記事になるのだ。

記事によると、創部は学校主導ではなく、生徒の同好会から始まっているようだし、まだ、他の伝統のあるクラブに押されて、練習場所確保もままならないようではあるが、逆に、その段階で既に記事にしてくれるんだから、楽な商売である。
我々が集客や物販のために、何とかメディアに取り上げてもらおうと、盛んに働きかけても、なかなか記事にしてもらえない現状とはえらい違いだ。

しかし、つくづく思うが、これが日本のスポーツを歪めてるよなぁ。

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July 19, 2009

今日もどこかでデブ・肥満

不動君、ちょっと太ったんじゃない?

ところで、横浜までライブを観に行くのに

青梅→(JR青梅線)→立川→(JR南武線)→武蔵小杉→(東急東横線)→横浜

という経路で行くことにした。

さて、電車の中では、最近寝不足のためずっとうたた寝していたのだが。

南武線から東横線に乗り換えるため、電車を降りて、JRの改札を抜けて、東急の駅の方に歩いていく。
駅に着いて、券売機の前に立って、ふと料金表を眺めると、何かおかしい。

よく周りを見回すと、違和感がある。

ここ、溝の口じゃん!

えー、マジで?

武蔵小杉駅も溝の口駅も何度か利用していて、初めてではないというのに、東急の券売機の前に立つまで、間違いに全く気づかなかった。

アホだ。

まあ、言い訳をするなら、南武線では≪武蔵溝ノ口≫駅なんすよね。

≪武蔵≫だけ聞いて、うっかり電車を下りてしまい、そのことに全然気づかなかったというわけです。

しかしだ、ここで南武線に戻って武蔵小杉まで行くというのは、負けを認めるようなものだ(何に?)。

路線図を見て

溝の口→(東急大井町線)→自由が丘→(東急東横線)→横浜

で行けるじゃん、と考え、時間に余裕もあったので、そのコースをとることにした。
結局、20分ばかり余分に費やしただけで、目的地には着けた。

ところで、溝の口で大井町線の電車に乗って、車内の広告を見ていると、「7月11日(土) 大井町線溝の口駅まで延伸!」というポスターがあった。

つい1週間前ではないですか。

もし、それ以前に同じ状況になっていたら、田園都市線で二子玉川駅まで行き、そこで大井町線に乗り換えねばならなかった。
その場合は、二度の乗り換えは面倒と、南武線に戻って武蔵小杉を目指したかもしれない。

私は鉄道マニアではない(笑)ので、近年都内で新たに開業された路線、つくばエクスプレスも日暮里舎人ライナーも、地下鉄の副都心線も未経験だが、今回は偶然にも“新線”に乗ってしまったわけだ。

ま、そんな大げさな代物でもないか。

実際、田園都市線の二子玉川―溝の口間を複々線化して、6線のうちの2線を大井町線にあてるというスタイルなので、新線とは言えないし。

しかし、大井武蔵野館が潰れてなかったら、この路線、重宝なのにな、などと、ふと昔に思いをはせてしまったのであった。

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July 18, 2009

サガミ鉄道

こう表記するだけで、実在の鉄道会社がシモネタっぽくなりますな。

物凄く久しぶりに青山陽一のライブに行った。

ライブ自体、去年の5月にアルコライムのライブに行って以来だから、1年2ヶ月ぶり。
青山陽一のライブは、その前、去年2月の朝日美穂のイベント以来だ。

こんなに間があいてしまったのには訳があって、別に忙しかったわけではない。

コンスタントに観に行っていた青山陽一が、この1年半くらい、客席数20席という小さなライブハウスでライブを続けていたので、ちょっと二の足を踏んでいるうちに、時が過ぎてしまったのだった。
それも、地方ではそれなりのサイズのライブハウスでやっているのに、東京に限ってそういう小さいライブハウスなのだ。

同じアーティストのライブに続けて行っていると、名前は知らなくとも、ああ、この人はいつも来るな、という顔ぶれがわかってくる。
私などは、あまりアーティスト本人とは接触を持ちたくない、変に≪顔≫になりたくない、という意識でいるが、逆に、会場に行くとアーティストの関係者ともすっかり親しくなっている常連というのもいる。

別にそれが悪いわけではなく、単に考え方の違いとしか言いようがないわけだが、ただ、客席数が20席というと、大体どういう顔ぶれになるか、想像がついてしまうのである。
そういった常連さんたちばかりだろう、と。

それで、どうにも腰が引けて、ライブに行かなくなってしまったのであった。

今回は、横浜のThumbs Upというライブハウスだったので、久しぶりに腰を上げたのであった。

このライブハウスは、何となく店の内部の感じが、昔よく行った渋谷のクラブクワトロを縮小したような感じ。
つまり、ステージ前に全体より一段下った客席があり、さらにその周囲をステージ前より一段高くなった客席が取り巻いている、という感じが、だけど。
この日は椅子とテーブルが出ていて(普段はどうか知らない、初めて行ったので)、満席になったとして100人程度がおさまるという感じ。

周囲を見回してみたが、観客は40~50人といったところだった。

一時メジャーレーベルに属していた頃は、観客が少し若返った気がしたものだが、この日の客層は、20代はいないだろ?という感じ。

いや、そこまで時をさかのぼらなくても、先に触れた観客20人のライブばかりやるようになる前は、もう少し若い人がいたと思うのだが、この日は完全によく見かける顔ばかりの30~40代のオッサン、オバハンばかりであった。

頻繁にCDを出しはないが、魅力的なライブをやってくれるので、ファンとしても応援していけるわけだが、そのライブが行きづらいものになってしまったら、確実にファンを減らす、ということではないんでしょうか。

そのCDだが、今回、新作CDがライブ会場で先行発売された。
さっそく購入し、聴いてみた。
音楽は相変わらず素晴らしいが、数年ぶりに出したものが5曲入りマキシシングルでは、どうにも物足りない。

ライブ自体は、とても良かった。
久しぶりということもあって、大変興奮した。

しかし、それ以外のところで、色々と複雑な思いが浮かんでくるのであった。

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July 14, 2009

鳴門のうす塩

こんなの絶対、商品名にあるにちがいない、と思って検索したら、かの大塚食品から「鳴門のうず塩」というなんのひねりもない商品が販売されていた。
あの辺の海水から作ったものだからとはいえ、安直だなあ。

しかし、塩が専売だった時代がかつてあったことが、今では信じられないくらい、スーパーには様々な塩が並んでいる。

私は、仕事の関係で、ある伝統的製塩法を守っている人の話を聞いたことがある。
それによると、専売時代には、塩を作るのは構わないが、一般に販売することは認められていなかったのだそうだ。
それでは商売にならないわけだが、抜け道があって、塩をパッケージする際に、微量の海藻を混入することで、食品として販売することができたのだそうだ。

私もその『食品』をいただいたが、ほとんどわからない程度の、ごくごく微量の海藻らしきものが、確かに含まれていた。
しかし、それは言われなければわからないレベルで、本当に抜け道であった。

法とは何かを、なんとなく考えてしまう話である。

ちなみに、その塩の味だが、私の鈍感な舌では、なんとなくまろやかな感じがするかなぁというくらいで、まさに豚に真珠湾攻撃であった。

……何がまさにだ(笑)

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July 12, 2009

飢え過ぎガツガツ

景勝殿、いくら腹が減っているからとはいえ、みっともないですぞ。

とはいうものの、猛烈に違和感があるのは≪メディア芸術≫という枠組みである。

文化庁のサイトによれば

「メディア芸術」とは,映画,マンガ,アニメーション,CGアート,ゲームや電子機器等を利用した新しい分野の芸術の総称です。

と定義されているのだが、後段のものはともかくとして、「映画,マンガ,アニメーション」が「新しい分野の芸術」と言えるだろうか。

数日前の朝日新聞だか、毎日新聞だかの記事によると、この言葉が生まれた当時、≪芸術選奨≫の対象ジャンルに含まれていなかった分野のものを一括りにしたものなのだと言う。

つまり、各界のお偉い先生方が最近になって「芸術として認めてもいいんじゃないか」と思ってくれるようになりました、という意味で「新しい」というわけだ。

それは随分ドイヒーな話だと思うが。

ただ、確かに現代アートの中では、これらのジャンルにまたがる作品も存在しており、その境界は曖昧になってきてはいる。
きてはいるが、個々のジャンルの核となる作品は、お互いの距離が随分遠いと思うのだが。

それにしても、こんな多ジャンルのもの、どんな形で資料収集しようというのかね。

そもそも、形態として、スクリーンやディスプレイ上に表現される映画、アニメーションと、雑誌・書籍という物体であるマンガでは、扱い方も異なる。
ゲームと一口に言ったって、ゲーセンにあるような、例えばモグラ叩きみたいな物質的なゲームから、完全にディスプレイ内にのみ存在するバーチャルなものまで存在する。
まあ、ゲームの場合、想定しているのは後者なのだろうが、じゃあ、今のパチンコなんかはどう扱うのかね?

どこで区切るつもりか知らないが、網羅的に収集するとなれば、一瞬で収蔵庫が満杯になるよ、これじゃ。

≪メディア芸術センター≫への反対意見の中に、映画なら既に国立近代美術館フィルムセンターがあるし、マンガ書籍なら国立国会図書館でも読める、というものがあったが、それはもっとも意見なのだ。

フィルムセンターを近美の付属ではなく、独立させて、アニメーションやCGアートなども含む映像作品を総合的に扱う国立映像センターとして拡充する。
一方、国会図書館は今後も図書の収集をすることを考えれば、マンガまで完全に収集しようとすると、たちまち書庫がパンクするので、マンガ専門の分館を造る。
こんな感じで、一旦、各ジャンルの専門施設を拡充した上で、越境的な作品を扱うために国立の現代美術館を整備する。

という既存の枠組みを一部利用したプランはどうだろう。

また、どう考えても収集すべき資料が膨大なんだから、展示スペースなんか考慮せずに収蔵庫中心で考え、展示なら、今でもメディア芸術祭で使用している国立新美術館を使えばいいと割り切るのも手だ。
どうせ自前の資料を持たない国営貸し画廊なんだから、どこか一室(ギャラリーは複数ある)を≪メディア芸術≫専門で使えば良いんじゃないのかということで。

なんにせよ、何でもかんでも一つにまとめるのだけは、やめた方がいいと、私は思うよ。

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July 11, 2009

機関車と鱒

トップハム・ハット卿の好きなもの。

しかし、「○○卿」というと、ヘンリ・メルヴィル卿とか、ピーター・ウィムジー卿とかを思い浮べてしまいますな。

『週刊文春』の記事によれば、テレビ局ではこの不況で夏のボーナスが100万円前後減額になったのだとか。
記事にも書かれているが、減額幅が100万円って、じゃあ満額出たらいくらになるんだよ。

文化庁がすすめる≪国立メディア芸術センター≫への反対意見の中に、そんなことよりもアニメーターの貧困問題を何とかしろというのがあったが、こういう記事を見ると、ケツを持ち込む先が違うんじゃないの、と思うね。
つまり、それはアニメ業界の構造的なもので、国とは全然関係のないことじゃないか、と思うので。

それにしても、≪国立メディア芸術センター≫に対する反対意見って、どれも的外れに感じるのは私だけだろうか?

マンガはお上にたてつくものであって……なんて意見があるが、それは一体いつの時代のセンスなんでしょうか。
今のマンガをそんな枠組みで語ろうというのだろうか、そういう事を言う人は。
それはむしろ、マンガを貶める発言だと思うぞ。

そんなものより景気対策を、という人もいるが、それは次元の違う話でしょう。
てゆうか、景気対策だから予算の大半を箱物の建築費にしようってんでしょ、あれは。
それはそれとしても、じゃあ、今は不況だから、政府は国立の博物館で所蔵している国宝や重要文化財を海外の金持ちに売りつけて、その金でビンボー人を救えとか、主張するんですかね。
文化政策はそういう目先の金のためにやるもんじゃないと思うけど。

国のやることだからと反対しているマンガ家は、そんなことを言うのなら、自分たちで組織を立ち上げて、資料の保全や展示・公開をすればいいではないか。
作家はそうして日本近代文学館を設立したのだ。
国がやることには反対、でも自分の儲けをそんなことに提供するのはイヤ、ってことは、マンガなんか文化じゃないよ、後は野となれ山となれだ、ってこと?
やっぱ、マンガは文学より低レベルだよね、と言って欲しいのか。

何と言うか、これを好機と受け取って、うまいこと国を利用して、マンガ家・アニメーターに都合のいい仕組みを作り出してやろう、くらいの気概のあるマンガ関係者はいないもんなのだろうか。
日本近代文学館なんか、なまじ民間なもんだから、金が無くてヒーヒー言ってるというのに、国立で作ってくれるってんだから、これをどう利用しようかと考える方が、反対するより有益だと思うんだけどなぁ。

文化庁も批判じゃなくてアイデアを提案してくれ、と言ってるみたいだし、やりようは色々あるんじゃないか。

もし民主党政権になって、白紙撤回でもされたら、もう二度とこんなチャンスはないと思うのだが。

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July 10, 2009

カネで来たウルトラマン

地球の平和も銭次第。

以前買ってそのままになっていたDVDを観る。

「大怪獣出現」

カリフォルニア州のソルトン湖のそばにはアメリカ軍の研究所があり、極秘に核実験が行われていた。
また、研究所と隣接した軍の基地では、ソルトン湖を利用したパラシュート部隊の水上降下訓練が繰り返されていた。
ソルトン湖周辺が地震に見舞われた直後、ソルトン湖にパラシュート降下した兵士と、それを回収する船の乗組員が行方不明になる。
新任のトゥイリンジャー司令官が調査に向かうと、全身の体液を抜かれた死体と謎の粘液の付着した船が発見される。
事態を重く見たトゥイリンジャーは保安官と協力して湖を遊泳禁止とするが、夜中にこっそり泳ぎに出かけた兵士とその恋人が再び犠牲になる。
再度調査に出かけたトゥイリンジャーと研究所のロジャース博士たちは、謎の生物とその卵を発見する。
ロジャース博士はその生物を太古のカタツムリの一種と考え、カタツムリの生態から考えて、まだ多くの卵が存在するはずで、早くその巣を見つけ出して破壊しなければ、増殖する可能性があり、特に湖からそばの運河に入り込んだら、手に負えなくなると警告する。
かくして、怪物駆除作戦が開始されるが、肝心の巣がなかなか見つからない。
そんな時、博物館長が見つけ出した古い資料により、湖とつながった古い地下水路の存在が判明し、その上流を調査すると、そこに巣が見つかる。
トゥイリンジャーたちがその巣を破壊した頃、研究所では最初に発見された卵が孵化し、研究所の女性事務員のゲイルを襲っていた。
基地に戻ったトゥイリンジャーによって、間一髪、怪物は倒され、ついにソルトン湖に平和が戻ったのであった。

というような作品。

1957年のアメリカ映画。

中子真治の「超SF映画」では≪放射能の影響で巨大化したイモ虫の怪物≫と書かれているが、上記のように、カタツムリのような軟体動物と説明されている。
カタツムリ同様の巻貝を背負った姿も登場するし。
ただし、巻貝のない個体もいて、特に顔の造形はイモ虫にしか見えないという難点はある。
また、別に放射能で巨大化したとは言っていない。
地層内に眠っていた卵が放射線に耐性を持っていたため、実験による放射線濃度の上昇が、孵化できる条件を作ったというように語られている。

だいたい巨大と言っても、体長3mくらいなもんである。
その点で「大怪獣出現」というのは、看板に偽りありですな。
まあ、原題は「THE MONSTER THAT CHALLENGED THE WORLD」なので、邦題を付けた奴が悪いのだが。
あ、でも「世界に挑んだ怪獣」というのも、大げさすぎるが。

なにしろ、人間の攻撃を跳ね返す“不死身性”は持ってないし、殺すのは、そんなに大変ではない。
ただ、陸にも上がれる水中生物で、巣が見つからないので、話が長引いているだけ。

パニックになるという理由で市民には情報を開示していないので、危機感のない奴が時々犠牲になるだけで、実際のところ、それほど大事にはならない。

それどころか、トゥイリンジャー司令官自身がゲイルを口説いてデートしたりしてるくらいだ。
それも怪物捜索の最中に抜け出して(苦笑)

ちなみに、デートしてるレストランには店の中に井戸があって、ゲイルがそこにコインを投げて願い事をするというシーンがあるのだが、そんなシーンがあったら、後でそこから怪獣が出て来て街がパニックになるという伏線かと思うところだが、結局そんなシーンはなくてガッカリ。

84分の映画で、司令官がデートしてるヒマがあるくらいだから、あまり緊迫感はない。
新種の猛獣を軍が始末しました、という程度でしかない。

ちなみに、日本では43分の短縮版に「大怪獣メギラ」という邦題をつけて公開されたそうだが、たぶんそれで充分だ。
ウルトラシリーズなら、同じ内容をその半分で作ってるぞ。

ちなみに、トゥイリンジャー司令官を演じているティム・ボルトという役者は、藤田進に顔がそっくり。
杓子定規な堅物と誤解されて、周囲から煙たがられているという設定なのだが、そこまで藤田進的だ。
日本でもアメリカでも、ああいうのが軍人らしい顔なのかな(笑)

よほど怪獣映画が好きな人以外にはお勧めしない。

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July 09, 2009

セロ弾きの合祀

軍楽隊じゃない人は合祀できません。

ある本を読んでいて、その記述に、なるほどと思った。

それは、戦場で死んだ軍用馬=戦没軍馬を、日本人がどのように祀ったか、について紹介した文章。

当初は仏式で供養が行われていたものが、やがて人間同様に神式で合祀されるようになるということを紹介しながら、こう書いていた。

また合祀という形式をもって祀るということは、建立以前の戦病没馬のみならず、建立以後に消耗される軍馬の霊魂もその対象としている。

ちなみに、「建立」というのは、軍馬を対象とした忠魂碑を、ということ。

あまりそういうふうに考えたことがなかったので、合祀についてのこの考え方には、蒙を啓かれた。
確かに、そうだ。

≪慰霊≫ということであれば、その慰霊を行う時点までに既に霊魂になってしまったもの=没したものを対象にしていることになる。
しかし、≪合祀≫なら、そこへはいくらでも追加が可能ということになる。

つまり、≪慰霊≫ならば、現実の死者を悼み、そこで過去を断ち切って、同じ悲劇を繰り返さない決意を表明する行為になりうるが、≪合祀≫では、未来永劫、悲劇的な死は繰り返されることを前提としている、とも言える。

それはある意味で現実的だが、現実的過ぎるとも言える。
平和は続くかもしれないし、続かないかもしれない、もし平和が続かず戦死した時は、いつでもお迎えしますよ、ということであって、平和を存続させるのだ、という意志は存在していない。
なるようにしかならぬ、という現実追認の意識しかない。

いや、もっと言うならば、合祀とは戦時の思想なのである。

明治維新以来、昭和20年の敗戦まで、断続的に戦争をし続けた時代の思想だ。

逆立ちしたって平和を祈念する思想にはならない。

神道には、御霊信仰と言うものがあるが、無念の死を昇華し、それを現世の人間の願望に転化していく、そのシステムとも、全く別の思想だ。
その意味で、あまり神道的とも思えない。

誰が合祀されているかという以前に、合祀というシステム自体を見直し、慰霊は慰霊で独立させるべきなんではないかと、思ったことであった。

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July 08, 2009

東北濁点ゴールデンイーグルス

汚点にならないようにね。

最近ちょっとひっかかっているのが、≪綾鷹≫というお茶のCM。

このお茶は、濁りこそがお茶の旨みであるというコンセプトのようで、CMもそこを強調するつくりになっている。

CMは、金髪の白人女性が「にこり」「あし」と言うのを、日本人の真田広之が「にごり」「あじ」と訂正するというもので、濁点=言葉の濁りとお茶の濁りを重ねたものになっている。

しかし、これって「チョーセンチン、チョーセンチンとパカにするな、おなち米くて、おなちクソする、ニッポンチンととこかちかう」と、どこが違うのだろうか?

このあたり、ちょっと微妙なところだが、私は人種・民族の差異を笑いにすることには反対ではない。
変だと思えば笑えばいいし、同時にまた、自分が笑いにされることを鷹揚に認め、そのことを逆に笑いとばせる者こそが、人として望ましい、平等性を具えた人物だと、私は思っている。

差異があるのはお互い様だし、立場が変われば、変に感じるのは仕方がないことなのだから。

逆に、それを認めないのは、一つの価値観しか認めない狂信者でしかないと思うのだ。

その意味で、朝鮮人・韓国人が濁音をうまく発音出来ないことを笑いにすること自体は悪くないと思っているのだが、ただ、歴史的経緯からすると、まだお互いにそれほど成熟していないので、時期尚早かな、と思っている。

ということを断った上で、ひっかかってしまうのは、こういうことだ。

同じCMを東洋人同士でやったら、私が思い浮かべたようなかつての差別をストレートに感じさせるものになってしまったはずだが、そこを白人女性にすることでごまかせると思っているんじゃないか、と感じること。
同時に、白人女性が最後まで濁音をちゃんと発音しないところに、しょせん毛唐に日本文化は理解できない、という驕りが見え隠れしているように感じること。

特に、真田広之の苦笑、というよりは失笑と見える笑いに、それを感じてしまう。

まあ、ただの考え過ぎでしょうが。

でも、お茶の濁りを言葉の濁りに変換して、商品の特性を伝える、というアイデアが俎上に上った時に、誰一人として私が思い浮かべたようなことを思いつかなかったとは思えないのだが。

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July 07, 2009

アサダマオー

種牡馬は、あの名馬ハツシバオー。

傑作すぎる絵葉書を手に入れてしまった。
一人だけで楽しむのはもったいないので、ご紹介したい。

Img_2534
ある古書店の目録で「民衆の鉄道 民衆よ愛せ」というタイトルの絵葉書を見つけた。
発行は朝鮮総督府鉄道局だという。
あいにく掲載されていたのが図版ページではないので中身はわからない。
わからないが、日本の朝鮮総督府が朝鮮半島に敷設した鉄道をPRしたものだろうと思い、買ってみることにした。

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古書店が送ってきた包みをほどき、さっそく中身を見てみる。

いきなりの1枚目がこれだった。

「乗るは極楽歩めば地獄」

なんですか?

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2枚目を見ると、鉄道の絵の中に、標語らしい言葉が3種類書かれている。

「人畜は公道を 汽車のみ鉄路」
「人に迷惑吾が身に危険 線路通行止めませう」
「急がば廻れ此所は危険いけがの途」

どうやら、これは鉄道をPRすると言っても、鉄道敷設の偉業を誇示するというようなものではなく、鉄道の安全運行のためのPRが目的のものらしい。
それも、朝鮮人民に対して、危険なので線路内に立ち入らないようにと啓蒙しようというもののようだ。

さて3枚目。
ここに当時の状況が記されている。
Img_2542

「踏切では一旦止まり注意して渡られたし」
「先づ止れ踏切の前」
「人に迷惑我身に危険線路通行止めませう」
「一日の線路通行者は五五一九〇人で一年間の死傷者は三九〇人であります」

線路通行者が55190人というのは、どう調査したものかわからないが、線路通行中の死傷者が390人というのは、確かに多い。

4枚目には、もうひとつの側面が記されている。

Img_2544
「踏切では御行儀よく汽車の通過を御待ち下さい」
「待つは一時急ぐは危険」
「人畜は公道を汽車のみ鉄路」
「一ヶ年の轢殺傷二五五頭」

単位が≪頭≫ということは、葉書の写真にあるように、牛などの家畜のことだろう。
これまた随分な数である。
しかも、牛なら、轢いた列車の方にも何らかの損害を与えたかもしれない。
総督府鉄道局が、こんな絵葉書を製作した気持ちも、分かるというものだ。

しかし、最後の5枚目を見て、私は爆笑してしまった。

Img_2540
「線路枕に涼みの仮寝明けりゃ妻子の涙雨」
「皆さんどうか安全な所へ御連れ下さい」
「線路に仮睡死亡者は一ヶ年七八人」

なんじゃこりゃ!
これはマジかいな?

写真の滑稽さに爆笑してしまったが、しかし、と考え込んだ。

いくら朝鮮が近代化に立ち遅れたとは言え、そこまで鉄道を理解できないものだろうか。

まあ、線路を道代りにして事故に遭うというのは、わからないではない。
道路整備の不充分な所では、現在でも広く見られる現象だ。

だが、線路を枕に転寝なんかするかね?

私の全くの憶測だが、この中には、我が身を賭しての列車妨害という事例が含まれているのではないだろうか。
抗議のために大衆の面前で焼身自殺するような人物が、割とよく現れる国だ、あそこは。

今は公然と日本に楯突く術はない、しかし、身体を張れば、列車の運行ぐらいは止められる、と言ういわば自爆テロのようなことだったんではないのか。

ふと、そんなことを考えたりしたのであった。

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July 06, 2009

大岡越前守ただスケベ

奉行のくせに色好みとは。

一方、これとは逆に、タイトルが異なっているので買ってみたら、実は同じものだったというものもある。
これがまた、事情が垣間見えて面白い。

Img_2503

先に買ったのは、「満洲国風物写真帖」だった。
小型の写真帖で、満洲国各地の風物の写真が掲載されている。
ただ、奥付がなく、発行年も発行者もわからない。
とはいえ、古書には少なからずあることなので、この時は気にもかけなかったのだった。

数年経って、今度は「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」というのを購入した。
品物が古書店から送られてきて、手に取った時に、どうもこの装丁には見覚えがあると思い、本棚を探って見つけ出したのが、先の「満洲国風物写真帖」だった。

案の定、装丁は同じ。
しかし、「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」はタイトルが表紙に直に印刷されているのに対して、「満洲国風物写真帖」の方はタイトルを印刷した題箋が貼り付けてある。
構成も、掲載されている写真も、途中までは全く同じなのだが、「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」の方は、タイトルの通り、『大連市催 満洲大博覧会 記念写真』という第二部が存在している。
逆に言うと、「満洲国風物写真帖」は、この第二部がゴソッと削除されているのである。

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これで、奥付がない理由も判明する。
「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」は第二部の最終ページに写真と共に奥付が印刷されているのだが、これを削除したために奥付もなくなってしまったのである。
ちなみに、奥付はこうなっている。

昭和八年八月五日印刷
昭和八年八月十五日発行
編輯兼発行人 大連市役所 品田直知
印刷人 大阪市西区土佐堀通一丁目 永井太三郎
印刷所 大阪市西区土佐堀通一丁目 永井日英堂印刷所
発行所 大連市催 満洲大博覧会

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ついでに言うと、裏表紙にも≪大連市催 満洲大博覧会発行≫とあるのだが、「満洲国風物写真帖」では、そこに≪特価二十銭≫と印刷した紙が貼ってある。

もうひとつついでに言うと、第一部の構成にも、1か所だけ違いがある。

「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」では、冒頭が

1)熱河離宮の口絵
2)武藤信義・鄭孝胥・荒木貞夫・永井柳太郎による題字
3)蒙古女性の口絵
4)蒙古女性の口絵の説明(口絵の裏面)
5)序文
6)大連埠頭の写真(序文の裏面)

となっているのだが、「満洲国風物写真帖」では、(3)の裏面にいきなり(6)が来ていて、(4)(5)がない。
不審に思って触ってみると、このページだけ紙が厚い。
光に透かして見て、(4)の面と(5)の面を接着してあることがわかった。

もう充分であろう。

つまり、「満洲国風物写真帖」は、「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」から満洲大博覧会に関する部分を削除したり、隠したりした上で再発売したものなのだ。

おそらくこういうことだ。

大連市が主催して満洲国大博覧会というイベントを開催した。
会期は昭和8年7月23日~8月31日。
そのパンフレットとして「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」が製作されたが、会期中に売り切ることが出来ず、在庫が残ってしまった。
そこで、この在庫品を一旦バラして、上記のような処理をした上で、製本し直し、再度商品として売り出した。

バラして製本し直したというのは、半分化粧を兼ねて用いられている綴じ紐のための穴が、開け直されていることからわかる。
表紙の縁が裁断されているのも、あやしい。
「満洲風物写真帖 附満洲大博覧会写真」は本体より表紙の方が少し大きい作りになっているのだが、これは、写真の通り、痛みが出やすい。
一度店頭に出して、それを回収したりしているうちに、この部分が汚くなった可能性は高い。
それを裁断して見た目を良くしたのだろう。

これらがなければ、逆に、すごく良く売れたので、永井日英堂が版下を流用して新たに商品化したという考え方も可能だが、この状況ではそうではないだろう。

それにしても、わざわざこんなことをしたところを見ると、よっぽど売れ残ったんだろうな。
大連市の担当者の焦った顔が目に浮かぶ。

こんな小細工をしてまで売りさばこうと考えたのが大連市の担当者なのか、永井日英堂の人間なのかは、私には確かめようもないが、涙ぐましい話である。

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July 05, 2009

エアヌード写真集

このポーズ、服を着ていないと想像するんだ、ほら、見えただろう。

私には海外神社の写真、厳密に言うなら海外神社の狛犬が写っている写真を収集するという、あまり共感してくれる人のいない道楽がある。
そのために、大日本帝国の支配地域を写した絵葉書や写真帖などを買い集めている。

≪海外神社の狛犬が写っている写真≫に関しての競争相手はほぼ存在しないが、それを含んでいるであろう旧植民地の絵葉書や写真帖となると、これは結構、敵が多い。
私はもっぱら古書店から送られてくる目録を見て注文する目録買いをするが、これと思って注文した品が競合して、誰かにかっさらわれることが、ままある。
そのため、極力、目録が郵送されてきたその日のうちに注文するように心掛けているのだが、そうすると別の問題が生じる。

同じものをダブって買ってしまうのである。

古書目録は職場に送られてくる。
職場に関係のない私物の本は自宅に置いている。
すると、自分が何を持っているか頭にちゃんと入っていないので、すでに持っているものなのかどうか確認できないまま、勢いで注文してしまうのである。

最近もそんなことが重なったので、今後そんなことがないように、買ったものをリストアップすることにした。
もともとケチな貧乏人なので、手当たりしだいに買っているわけではない。
今のうちならばそう面倒くさくもなくリストアップできそうだ、と思ったのである。

ついでに、つい神社の写真だけ確認してそれ以外はあまり丁寧に見てこなかったそれらのものを見直してみようという考えもあった。

今後はそういう神社以外の写真の中から、いろいろな尺度でピックアップしたものを本編サイトで紹介していこうとも考えているが、ここでは、それ以外に気がついたことなどを、ちょっとご紹介してみようと思う。

実は、ダブって買ってしまったと思ったものが、じつは微妙に違うことに気がついたものがある。

Img_2500_2

「最新満洲写真帖 附旅順戦蹟」という写真帖がある。
同じタイトルのものを1冊持っているのを忘れて、もう1冊買ってしまった。
この2冊は、表紙の色と見返しの紙の模様が違うものの、装丁は同じだ。

装丁に見覚えがあったので、やっちまったと思って、中身を真剣に見比べたりしなかったのだが、改めて見てみると、不思議な代物である。

1冊の奥付にはこうある。

昭和四年三月五日印刷
昭和四年三月十日発行
昭和四年十月五日再販印刷
昭和四年十月十日発行
昭和六年三月五日三版印刷
昭和六年三月十日発行

発行兼編輯者 和歌山市小松原通一丁目五番地 山崎鋆一郎

印刷者    和歌山市小松原通一丁目五番地 山崎銈二郎 大正写真工藝所

発行所    安東県市場通 文栄堂書店

もう一冊には

昭和五年三月十日印刷
昭和五年三月三十日発行
昭和五年五月一日再販印刷
昭和五年五月十日発行
昭和六年三月一日三版印刷
昭和六年三月一日発行
昭和九年六月十日四版印刷
昭和九年六月十日発行
昭和十年七月十五日五版印刷
昭和十年八月一日発行

発行兼編輯者 和歌山市小松原通一丁目五番地 山崎鋆一郎

印刷者    和歌山市小松原通一丁目五番地 山崎鋆一郎

販売所 新京曙町四丁目六番地 三利公司ビル六号 大正写真工藝所新京営業所

要するに両者とも、山崎鋆一郎の経営する大正写真工藝所というところで製作されたもので、前者は満洲の、朝鮮との国境の町・安東の文栄堂書店に卸され、後者は満洲国の首都・新京に進出した大正写真工藝所によって直販された、ということになるのだろう。

それはいいのだが、発行過程が食い違っている。
文栄堂書店でまだ販売している状態で、自社でも直販を始め、直販用はそれのみの発行日を記載しているということなのだろう。
安東と新京では商圏が違うので、それでいいということだったのだろうが、こうして後になって買い集めようとする者には、一見、別のものに見えてしまう。
特に古書店で目録買いしようなんて人間には、紛らわしいことこの上ない。

もっとも、この2冊、別のものと言えないこともない。
全体の構成や写真に付されたキャプションはほぼ同じなのだが、実は掲載されている写真の4分の3ほどは異なっているのだ。
また、残りの4分の1は同じ写真ではあるが、修正されていたり、トリミングが変わっていたりしているのである。

卸品と直販品が初版段階からこんなふうに異なっていたとは思えない。
その違いの因って来るところは、おそらく発行年の違いであろうと思える。

Img_2518

前者は昭和6年3月の三版、後者は昭和10年8月の五版。
つまり、前者は満洲国建国(昭和7年3月=大同元年3月)の前であり、後者は以後になるのだ。

そのはっきりとした例が、長春から新京への入れ替え。
前者には≪長春≫という都市の写真が7枚掲載されているが、この≪長春≫が建国後に満洲国の首都≪新京≫となったため、後者では13枚の≪新京≫の写真へと入れ替わっている。

Img_2515
例えばこれは、長春駅(上)=新京駅(下)だが、ページのレイアウトは踏襲しながら、写真自体は異なっている。

また、建国前は日本の利権の及んでいる範囲が関東州と長春以南の満鉄沿線にあった鉄道附属地、撫順炭坑などであったため、前者には満洲北部の写真はハルピンしか含まれていないが、後者ではそれにチチハル、ハイラル、満州里など満洲北部の都市が加わっている。

そんな中、唯一あからさまな修正の加わった写真がある。
大連近郊の海岸≪老虎灘≫の写真だ。

Img_2512
写り込んでいる人物や船の姿から、同一の写真であるはずだが、背景になっている地形が変わってしまっている(上が昭和六年版、下が昭和十年版)。
この変更理由はよくわからない。
背景の岬の丘陵の上に何か隠したい建造物があるのだとしても、元々の写真にも何も写っていないのだから、そのままにしておけば十分のはず。
それとも地形そのものを隠蔽したかったのだろうか。
よくわからない改変である。
Img_2513

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July 04, 2009

日本無用

特に意味はないつもり。

最近、あることに気がついた。

北川えりというタレントがいる。
以前、NHK中国語会話に出演していた、元自動車教習所指導員ということでも知られるタレントだが、最近ブログを始めたということで、ちょっと覗いてみたところ、今度、日本舞踊の発表会で『藤娘』を踊るということが書かれていた。

そう言えば、その少し前に、たまたま深夜に目が覚めて、テレビをつけたところNHK教育テレビで高校講座・地学というのを放送していた。
そのアシスタントをしている平野麻樹子という人物に興味を抱き、検索してそのブログを覗いてみたところ、演劇をやっている人で(これは予想していた)、最近、日本舞踊の発表会があったという記述があった。

この二つを読んで、思い出した。

やはり、NHK中国語会話に出演していたことのあるタレントに浅川稚広がいる。
岡部令子とユニットを組んでいたことでも知られる(?)が、私は恥ずかしながら、それ以前から知っている。
写真集も持ってるし。
そのブログを覗いてみたことがあるが、やはり日本舞踊の発表会の話が出ていて、しかも≪名取≫の資格を持っているという。

さらに、かつてお天気お姉さんとして人気のあった女優の平山さとみのサイトをよく見ていた時期があるが、そこでも日本舞踊の発表会で『藤娘』を踊ったという記述を読んだ記憶がある。

つまり、こういうことだ。

あまり売れていない女性タレントは日本舞踊にはまる。

という法則が存在しているのではないか?

売れっ子ではないが、といって全く無名でもない、微妙なポジションにいる女性タレントは、踏ん切りをつけて芸能界を去ることも出来ず、といって仕事は多くないので、自由な時間も多い。
その時間を有効に活かし、自分の仕事のステップアップにもつながるようなことは何かないか、と考えた時に、日本舞踊が良い、ということになるのではないか。

着物での所作が身につけば、時代劇に活かせるだろうし、そうでなくとも、指先まで気を遣って踊ることは演技にもプラスになるだろう。

そういう思いから日本舞踊に向かうのかな、などと思ったのであった。

これが男性タレントになると、どうなるのか、格闘技をやっているタレントも結構いるみたいだけど、と思いつつ、オトコに興味はないので、調べる気は出てこない。

いや、女性タレントも、たまたま上記の四人に共通点があっただけで、他は調べてないけどね。

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July 03, 2009

ワンルームでスコーン

意味なし。

あらかじめ断っておくが、Perfumeは嫌いではない。

嫌いではないが、その語られ方に違和感がある。

Perfumeと言えば、長い下積みを経験した苦労人、ということになっているらしい。
そんなふうに紹介されている場面を何度か見た。

私は別にファンではないので、メジャーになったここ2年ほどのことしか知らないので、試しにWikiの既述を元にまとめると、こういう経歴になる。

2000年 アクターズスクール広島でスクール内のユニットとして結成
2001年 メンバーが現在の3人になる
2002年 インディーズで最初のCDを出す
2003年 東京進出し、インディーズレーベルからCD発売
2005年 メジャーデビュー
2006年 スカイパーフェクTVで冠番組が始まる
2007年 楽曲がCMに使用されるなど話題になり始める
2008年 ブレイクし、日本武道館でのソロライブや紅白歌合戦出場を果す

えーと、これは普通“とんとん拍子”と言わんか?

なにしろ、現在3人の年齢は20歳なのだから。

≪アイドル≫と考えるのなら、売れ出した頃には18歳だったのだから、やや遅咲きと言えないことはない。
しかし、≪アイドル≫の意味が拡散してしまい、20代後半や30代になっても≪アイドル≫として存在しうる今の状況からすれば、決して遅くはない。

ましてや、≪アーティスト≫と捉えるなら、20歳時点でここまで来たなら順風満帆でしょう。

≪アイドル≫の10代は活躍していなければいけない時期だが、≪アーティスト≫なら10代は力を蓄えるための修行時代だ。

結成したのが20歳で、ブレイクした時には28歳になってました、と言うのなら、それは苦労しましたね、と思うが、中学生で結成して、成人式より前にブレイクした者を、苦労人と呼ぶ感性は、私にはない。

それはむしろ当り前なことで、結成即メジャーデビュー即ブレイク、なんて方がどうかしているのである。

というようなことを書いていたら、あるグラビアアイドルがブログでさんざん不平不満を述べた上で引退宣言した、という芸能ニュースがあった。

記事によれば、歌手になりたくて、その手段としてグラビアをやり始めたのに、一向に歌手になれそうな気配もなく、むしろより露出の多い仕事に流れていくことに、業を煮やしてのことのようだ。

まあ、グラビアアイドルから歌手として大成した例はないでもない(蒲池幸子⇒坂井泉水のように)。
しかし、本気で歌手になりたいのなら、踏み出す一歩が間違っている。

音大を筆頭にして街のちょっとしたスタジオまで、ボーカルレッスンをしてくれる場所はいくらもあるだろうし、自分でバンドを作ってアマチュアとして活動していくことも出来るだろう。
路上で歌ってもいいし。

歌手になる手段としてのグラビアアイドルって、有名になれば歌手の仕事も来るだろう的な、発想なわけでしょう?
それって、下積みをショートカットしようっていう魂胆だよね?

Perfumeを苦労人と捉える感性と、このグラビアアイドルの思考には、ある種の共通性があるように感じる。

試行錯誤を厭い、すぐに売れて当然、自分にはその価値があるとする、高い自己評価。

まあ、Perfumeが自らを苦労人と認識しているのかどうかは知らないが、そう捉える人の心の中にも、そういうものが潜んでいるんじゃないか、という意味で。

ま、そういう私も苦労知らずの甘ちゃんですが。
試行錯誤は嫌いだし。

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July 02, 2009

新造人間チャハーン

炒飯を食わねば、何を食う?

最近、突然、私の中で≪青山倫子≫ブームが発生し、彼女が出演しているという理由で、こんなDVDを購入した。
ちなみに、香港版のDVDなので、日本語の解説はなく、日本語字幕もない。
以下のストーリーは、繁体字の字幕から推測したもので、もしかしたら間違っているかもしれない。

「狼牙 LEGENDARY ASSASSIN」

香港のある島に、一人の男がやって来る。
男は、その島に潜伏している犯罪組織のボス・馬爺に忍び寄ると、馬を倒し、その首を斬り取って持ち去る。
男は、そのまま島を立ち去るはずだったが、折から接近中の台風のため、船が出航できなくなり、足止めを食ってしまう。
仕方なく島内をさまよう男は、木に登ってしまった飼い猫を助けようとして木から転落した女を助ける。
その女の案内で食堂に出かけた男。
すると彼女は、そこにいた不審な男3人に声をかける。
彼女は地元警察の警官だったのだ。
職務質問を拒み抵抗する男たちに苦戦する彼女を助け、3人を叩き伏せる男。
調書を取るために同行を求められ、警察署にやって来た男を署長らは、指名手配犯を捕らえたヒーローとして厚くもてなしてくれる。
その家庭的な雰囲気に心なごませる男。
しかし、その頃、馬の部下たちが、馬を殺した男を探していた。
そして、警察も馬の死骸を発見する。
一転、容疑者となる男だが、翌朝、馬の部下や警察の追及を逃れ、香港本土にどうにか戻りつく。
男への疑惑と好意の間で思い悩む女性警官。
そんな彼女を馬の部下たちが誘拐し、男をおびき出そうとする。
その夜、馬の部下100人が待つ場所に現れた男は、激しい闘いで両腕両足を折られ、満身創痍になりながらも100人を倒し、最後に残ったのは馬の情婦。
もはや闘う力もない男に日本刀で襲いかかる情婦。
どうにか自力で拘束を解いた女性警官が、男を助けるべく情婦に立ち向かうが、情婦の刀に貫かれそうになる。
その時、彼女の前に立ち塞がり、代わりに刃を受けたのは男だった。
おかげで情婦を倒すことができた女性警官の腕の中で、昨日が人生で最上の日だったと告げて、男はこと切れるのだった。

最後に、女性警官のモノローグで、以下のことが語られる。

かつて、ミャンマーとタイの国境地帯で慈善活動をしていた看護婦を馬が誘拐し、ミャンマー政府に対して、自分の部下の釈放を要求した。
しかし、交渉は決裂し、看護婦は殺される。
その看護婦の墓の前に馬の首が供えられていた。

警察署で警官たちと一緒に食事をしている時に、自分は孤児であるというようなことを言っているみたいなので、子供の頃にその看護婦の世話になったのだろう。
その復讐のために馬を殺した、ということのようだ。

で、青山倫子だが、馬の情婦である。
重要な役だが、そんなには出番はない。
最後の格闘シーンまでは携帯電話で指示を出しているだけ。
他の俳優と同じ画面に出てくるのも、最後の格闘シーンだけだ。
その格闘シーンもあまりパッとしない。
パッとしないというか、すでに主人公の男は両腕両足が折れていて、戦えない状態になっているので、格闘が成立していない。
主人公の男は相当強いので、そのくらいのハンデはないと、ただ女を叩きのめすだけになっちゃうから、まずいとは思うけど。
それと、「おりん」で殺陣は習っているはずだが、どうも、刀に振り回されている感じで、ちょっと残念。
青山倫子を観るために買った私としては、少々物足りない。
ちなみに、青山倫子は日本語で演技し、そこに後から広東語の吹き替えがかぶせられているようだ。

主人公の男を演じているのは呉京(ウー・ジン)。
なかなかカッコいいし、動きにもキレがある。
100人と戦う場面なんか、悪くない。
この場面は、雨の中のシーンなのだが、蹴った脚の動きや、殴られた頭部の動きに従って、水滴が飛び散るのは、動きがよりシャープに見えて、カッコいい。

まあ、「マトリックス」のパクリかもしれないが。

悪くない映画だと思うが、日本版のDVDがないということは、日本公開されてないのかな?
日本公開されたら、よくわからない箇所の確認のためにぜひ観に行きたいと思うが、予定はないのだろうか?

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July 01, 2009

京城記憶合金

北に触れたら南にも触れんわけにはいくまい。

買っておいたDVDを観る。

「惑星Xから来た男」

新聞記者のジョンは、戦地で友人となったエリオット博士から、特ダネを提供するから来てほしいという連絡を受け、イギリスのバリー島に上陸する。
島にある城砦に滞在している博士は、少し前に突如現れた謎の天体・惑星Xが間もなく地球に最接近し、その時地球上でもっとも惑星Xに近付く場所がこのバリー島なのだと説明する。
その夜、島の宿屋までジョンを送って行った博士の娘イーニドは、謎の物体を発見し、その中に乗組員らしい不気味な顔を見る。
翌日、ジョンと博士もその謎の生命体と遭遇する。
博士はそれを惑星Xから来た宇宙人と考えるが、言葉が通じず、コミュニケーションが取れない。
博士の教え子であるミラードが、幾何学を用いてコミュニケーションすることを思いつくが、ミラードは惑星X人とコミュニケーションするうちに、彼から得た知識で地球を支配するという野心に囚われ、惑星X人をおのれの意のままにしようと襲いかかってしまう。
これをきっかけに、惑星X人は態度を変え、ミラードや博士やイニード、島民たちを催眠にかけて誘拐し、彼らを誘導して、宇宙船の周囲に土塁を築き始める。
ジョンたちからの救援要請に応じて軍が到着するが、彼らは惑星Xの再接近が今夜だと知ると、何が起こるかわからないので、その前に攻撃すると主張、それでは誘拐された人々が犠牲になるというジョンに対して、深夜11時に攻撃を開始するので、それまでに救出せよ、と命じる。
ジョンはなんとかその任務を果たし、軍は予定通り11時に攻撃を開始、宇宙船もろとも惑星X人は爆破されてしまう。
その瞬間、惑星Xは地球に最接近し、そして遠ざかってゆくのであった。

1951年の作品である。

この惑星X人は、いきなり攻撃してくるような野蛮な奴ではなく、比較的友好的ではあるのだが、最後までその真意ははっきりとはしない。
唯一惑星X人とコミュニケーションをとることのできたミラードの口から、惑星X人は、自分たちの星が凍土化してしまったため地球を侵略しようとしている、とは語られるが、はっきりとした侵略行動はとらないし、それが本当かどうかも分からない。
特殊な電波か何かで、人間を催眠にかけて意に従わせることはするが、特に人間を殺しはしない。
逆に、地球の大気が体に合わないのか、常に宇宙服を着ているのだが、そのヘルメットについている気体を送るホースのコックをひねられるだけで気絶してしまうような、弱い奴だ。
いや、窒息すれば誰でもそうなるか(苦笑)

映画自体、ミラードが変な野心を持たなければ、普通にコミュニケーションをとって、穏便に事態は推移したかもしれない、という含みを最後まで持たせている。

惑星X人の側からすると、自分たちが移住可能か調査しに来ただけなのに、自分たちの科学力に目のくらんだ男に襲われ、自衛のために土塁を築いていたら、攻撃を受けてしまった、という話と受け取ることも可能で、コミュニケーションが成立しないということの悲劇とも解釈できる。

そう言えば、大学生の頃に読んだジョー・ホールドマンのヒューゴー・ネビュラ両賞受賞作「終わりなき戦い」も、人類と宇宙人の間にコミュニケーションが成立しなかったがために1143年間も戦争し続ける、という話だったな。

人類と宇宙人の間にコミュニケーションが成立せず、事態が悪化するという展開は「未知との遭遇」のオルガンで簡単にコミュニケーションできてしまうのよりは、ずっとリアリティがあるように思う。
いや、あれも、コミュニケーションになっているのかどうか、疑わしいものだが。

DVDのパッケージには、惑星X人の顔はアジア系で、当時のアメリカの社会性を表していると書いている。
私自身はあまりアジア系という印象は受けなかったが、確かにツリ目だし、どこか製作者にそういう気持ちはあったのかもしれない。
日本との戦争が終ってまだ6年目だし、朝鮮戦争の最中だし。

だとすれば、何を考えているのか分からないからやっちまえ、という乱暴さは、いかにもアメリカ的(いや、攻撃するのはイギリス軍だけど)と言えるのかも知れない。

なんにせよ、いささか釈然としない思いは残る作品である。

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