« October 2008 | Main | December 2008 »

November 19, 2008

ローゼンバス

いや、ローゼンの何たるかなんか、全然知りませんが。

さて、≪梅76丙≫系統が≪青梅駅前≫を出て最初の停留所が≪仲町≫である。
この「仲町」は、かつては消えた地名だった。
住居表示上は「青梅市青梅」だったのである。

先に青梅市は1町6村が合併したものと書いた。
厳密に言うと、昭和26年に青梅町・霞村・調布村の1町2村が合併して青梅市になり、昭和30年に吉野村・三田村・小曽木村・成木村の4村がそこに加わった。

合併の時点で唯一の町であった青梅町(以下、新青梅町)は、元々は、明治22年に勝沼村・西分村・青梅町(以下、旧青梅町)・日向和田村を合わせて誕生したものである。
現在の「青梅市青梅」は旧青梅町に相当する地区である。他の村も「青梅市勝沼」「青梅市西分町」「青梅市日向和田」となって、名称が残っている。

旧青梅町には、当然、その中の小地名があった。
それを消して「青梅」に一括したのが、新青梅町の誕生時点なのか、青梅市の誕生時点なのか、あるいはそれ以外か、手持ちの資料には記載がなく、また、面倒になってそれ以上は調べなかったので、わからない。
わからないが、とにかく旧地名が「青梅」にされてしまって消えていたのである。

青梅市ではそれを復活させた。
細かく言うと、「青梅市青梅」に一括されていた地名を「裏宿町」「森下町」「上町」「仲町」「本町」「住江町」「天ヶ瀬町」「大柳町」「滝ノ上町」に細分したのである。

時期は忘れていたが、青梅市のサイトの年表によると、平成10年10月のことになる。

さて、冒頭に取り上げた今尾氏の本では金沢市で平成11年10月に「主計町」という地名を復活させたことを取り上げ、

住居表示で消滅した町名が復活したのは全国初だという

としている。

青梅の方が先だと思うけどなぁ。

「主計町」は江戸期からの地名だそうだが、もちろん、青梅の方も同様で、地名を創作したわけではない。

旧青梅町地区は、江戸時代から市が立ち、『青梅縞』と呼ばれる織物で有名な繊維産業の一大中心でもあった。
また、青梅街道は『甲州裏街道』とも呼ばれ、武蔵御岳神社参拝や小河内への湯治の通り道でもあった。
そのため人の行き来が盛んで、宿場が形成されていた。

その宿場を「森下」「上宿」「中宿」「下宿」「新宿」と呼んでいたという。
このうち「上宿」「中宿」「下宿」「新宿」が、それぞれ「上町」「仲町」「本町」「住江町」に該当するわけだが、それらの名は、例えば、御岳神社参拝の道中記である「御嶽菅笠」(天保年間の成立)でも確認できる。

「森下」の西が「裏宿」だが、これも当然宿場にちなむ名であり、また、中里介山の「大菩薩峠」にも登場する江戸時代の盗賊『裏宿七兵衛』の名からも、古い地名であることはわかる。

ちなみに、「地図で見る多摩の変遷」に収録された地図は5万分1のため、細かい地名が確認できないのだが、少なくとも明治40年から昭和47年までその「裏宿」が記載されている。
また、昭和47年のものでは「天ヶ瀬」も確認できる。

ということで、どれもちゃんとした旧地名である。

ということで、『江戸時代からの旧地名の復活』において、青梅の方が先行している。

金沢市には、『県庁所在地としては全国初』と改めてもらいたい。

ちなみに、青梅で旧地名が復活出来たのは、住吉神社の大祭の影響が大きいように思う。
住吉神社の大祭では、上記の町ごとに山車を出し、お囃子を行う。
その結束が旧地名を温存させたのだと思う。

ついでに言うと、消えていた旧地名が復活したことで、逆に「青梅市青梅」が消滅した。
その結果、「青梅市青梅」が存在しないのに「青梅市東青梅」は存在する、という状況が生じた。
奇妙と言えば奇妙だが、と言って、「東」を取るわけにもいくまいから、このままにするしかないであろう。
ま、「青梅市東青梅」には市役所が存在するため、地名を変更した場合の影響が大きいということもあるのだろう。
全職員の名刺を取り替えたり、公文書の書式を訂正したり、なんてことに税金を使われるのも、ちょっと釈然としませんしなぁ。

ということで、終了。

間違いは無いよう気をつけたつもりだが、何かあったらご指摘いただきたい。

| | Comments (12)

November 18, 2008

菅公バス

太宰府への片道運行。

梅郷地区の隣が和田町である。
停留所としては≪和田町会館前≫にその名が登場する。

ところで、この多摩川上流域ではおおむね西から東に流れる多摩川に沿って、北岸に青梅街道、南岸に吉野街道が走る。
いま触れているように南岸では吉野街道に都営バスの路線があり、北岸では青梅街道に添うようにJR青梅線がある。
その青梅線に≪日向和田≫という駅がある。
駅の周辺は「日向和田」という住居表示になっている。
位置関係としては「和田町」の北側になる。

南北に並んでいるのが「日向和田」と「和田町」というのはアンバランスな気がしないだろうか。

実は、上記の今尾氏の本でも触れている(P243)のだが、「和田町」はかつては「日影和田」と呼ばれていたのである。

先程は名を伏せたが、吉野村となった4村とは、柚木村・下村・日影和田村・畑中村なのであった。

柚木村は現在は「柚木町」となっており、畑中村は「畑中」となっているので、現在の住居表示にも残っている。
下村は先に触れた「梅郷」地区のことである。
しかし、現在は「梅郷」が下村だった痕跡は無い。
例えば、地区内にある八幡神社は、かつては『下村八幡神社』と呼ばれていたのだそうだが、現在は『下山八幡神社』となっている。
それぐらいは残しておいても良かったんじゃないかと思うのだが。

そして、日影和田村は「和田町」に変更されていることになる。
多摩川渓谷の南岸のため南側に山を背負っているので日照時間が限られることから「日影」とついたようだが、印象が悪いということで「和田町」にしたようだ。

ちなみに、「日向和田」を他地域の人で「ひゅうがわだ」と読む人がいるが、「日影」と対なので、もちろん「ひなたわだ」である。

さて、私もかれこれ18年ほど青梅に住んでいる。
その間に停留所名が変わった場所がある。
「和田町」の隣の「畑中」地区である。

現在は

≪畑中一丁目≫⇒≪畑中下西≫⇒≪畑中神社前≫⇒≪畑中公会堂≫⇒≪畑中三丁目≫

となっている部分が、私が転居してきた当時は

≪駒木野入口≫⇒≪下西東≫⇒≪下西≫⇒≪畑中公会堂≫⇒≪畑中≫

であったのだ。

「駒木野」という呼び名が消え、「下西」が上に「畑中」を冠することになってしまったわけだ。
ま、前者は「駒木町」という地名が「畑中」地区の下流側に残っているし、後者は≪下西東≫だったところをそのまま≪下西≫にするのは混乱するというような配慮かもしれないが。

しかし、≪下西東≫と≪下西≫が並ぶところがややこしいと言えばややこしいが、『丁目』を連発するよりは味があると思うのだが。

ところで、この変更の際に、字面ではわからない変更がなされた。

かつては『畑中』を「はたけなか」と読んでいたのに、この変更時から「はたなか」と読むようになったのだ。
バス内のアナウンスがそう変更されたのだ。
つまり≪畑中公会堂≫は、以前は「はたけなかこうかいどう」とアナウンスされたが、それが「はたなかこうかいどう」になったのである。

事情を知らないので推測だが、「はたけなか」では田舎臭いということを言い出した者がいるのだろう。
「日影」を忌避したのと同じ理屈だと思う。

もっとも、地元の人間は今でも「はたけなか」と言っているのだが。

しかし、先日バスの乗り合わせた小学生は「はたなか」と言っていた。
生まれた時からそうアナウンスされているのだから当然の反応だろう。
彼らが大人になる頃には、段々そちらが主流になって、そのうち「はたけなか」世代が死に絶えると、初めから「はたなか」だったかのようになってしまうのだろう。

| | Comments (0)

November 17, 2008

飛ばす

路線バスが80キロも出すなよ!

今尾恵介氏の「地名の社会学」(角川選書 平成20年)を読んだのが、その中に『東京の消えた地名をバス停に訪ねる』という項があったので、ちょっと真似してみる。

私が日常頻繁に利用しているのは都営バスの≪梅76丙≫系統。
≪青梅駅前―吉野≫間を走るバスである。
JR青梅駅前から、旧青梅街道を通り、青梅市民会館の前で多摩川方向に折れて坂を下り、万年橋を渡って多摩川南岸の吉野街道に出ると、後はずっとその吉野街道を西に向かって行くという路線だ。
以下、便宜上≪青梅駅前≫を始点、≪吉野≫を終点として扱う。
連続した停留所名を出す時は、≪青梅駅前≫から≪吉野≫に向かっている。

と言っていきなり終点から話を始めるが、旧地名と言えば≪吉野≫である。
現在の青梅市は段階的に1町6村が合併して出来たものだが、そのうちのひとつが吉野村なのだ(他は青梅町・霞村・調布村・三田村・小曽木村・成木村)。
しかし、この「吉野」という名称は、現在の住居表示の中には残っていない。
停留所と農協や郵便局の支店名に残っている他は、ただ、梅の名所として知られる「吉野梅郷」にその名を残すのみである。

もっとも、吉野村も明治22年に『市制町村制』が施行された際に、4村が合併して出来たものだ。
合併後の新村名である「吉野」は、実は元の4村のいずれの名も引き継いでいないので、新しく創作された地名と言える。
ただし、武蔵御岳神社のある御岳山の一帯を奈良の吉野山になぞらえるということは少なくとも江戸時代から行われていたらしいので、全く無縁の名を持ってきたわけではないようだ。
初代村長となった川上群三が、奈良の吉野のように桜の名所とするべく合併前から数千本の桜の植樹を行っており、そこから吉野村としたらしい。
しかし、その桜は後にほとんど伐られてしまい、杉に植え替えられてしまった。
林業が立ち行かなくなっている現在の眼から見れば、川上村長には先見の明があったとも言えるが、そんな訳で桜の名所とはならず、元々多くあった梅の方で名所となったのであった。

さて、その「吉野梅郷」だが、この「梅郷」は現在、この一帯の住所表示にも取り入れられている(1丁目~6丁目)。
しかし、土地の人は、あまりこの言い方をしない。
「上郷(6丁目)・中郷(3~5丁目)・下郷(1・2丁目)」と呼ぶ。

この住居表示にはない呼び方が停留所名に反映されている。

≪下郷≫⇒≪吉野梅林≫⇒≪梅郷≫⇒≪上郷≫

となっている。
惜しむらくは≪中郷≫たるべきところを≪梅郷≫にしているところだ。
現在の地名が「梅郷」だからと言うならば、

≪下郷≫⇒≪吉野梅郷≫⇒≪中郷≫⇒≪上郷≫

とすればいいように思うのだが。

もっとも、「上郷・中郷・下郷」という呼び方も、実は新しいもので、以前は「上分・中分・下分」と呼んだ。
手元にある「地図で見る多摩の変遷」(日本地図センター 平成5年)に収録された地図で見ると明治40年・大正12年・昭和26年の地図では「上分・中分・下分」と表記されており、その次の昭和47年では「梅郷」になっている。
どうやら「上郷・中郷・下郷」という呼び方は、「上分・中分・下分」が「梅郷」に一括されてからの呼び方のようだ。

ところで、お気付きだろうか?
上に「上郷(6丁目)・中郷(3~5丁目)・下郷(1・2丁目)」と書いたが、上から下に向かって丁目の数字が小さくなっている。
つまり、多摩川に沿ったこの地域を、上流から下流に向けて上郷・中郷・下郷(上分・中分・下分)と呼んでいたのに対し、丁目の方は下流を起点に上流に向けて数字が大きくなるように配されているのである。

なぜこのようになっているのかは、正確な事情は、いまちょっと調べただけではわからない。

かつて上流を上としたのは、単純に川の流れに従っただけなのかもしれないが、こんな話もある。

実は戦国時代に織田・徳川連合軍に滅ぼされた武田家の残党が、塩山から多摩川伝いに落ち延びて、この地域に流れ込んで来ているらしい。
彼らには故国である甲斐の方角を上とする意識があったらしい。
だから屋敷の構えも、多摩川上流側を上に背負い、門を下流側に向けて造ったのだという話を誰かから聞いた覚えがある。
そう言われると、江戸時代の屋敷の構えを残している吉川英治記念館も、屋敷の正門をメインストリートである吉野街道に向けずに、下流側の細い路地の方に造っている。

だから上流から上→下だったとは言えまいか。
逆に言えば、現代になり住所表示を変更した際に、新たな中心である東京に近い側から順に丁目を割り振っていった、という想像も浮かんで来る。

もっとも、青梅市域では多摩川に面した地区は例外なく下流から上流へと丁目が上がっていくが、それ以外の市区では状況はバラバラであるようだ。

| | Comments (2)

« October 2008 | Main | December 2008 »