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January 22, 2008

訃報

この人の訃報には駄洒落タイトルを付けた方が良いような気もするが、うまいのが思い浮かばなかったのでやめにした。

加藤博一氏が亡くなった。
56歳とは、また随分若い。

若い人には、最後に所属した横浜大洋ホエールズのスーパーカートリオの印象が強いかもしれない。
訃報記事も、「元スーパーカートリオの~」みたいな書き方が多い。
しかし、現役選手としては、1970~75年がライオンズ(西鉄→太平洋クラブ)、1976~82年が阪神タイガース、1983~90年が横浜大洋ホエールズなので、阪神タイガース時代も長い。
私にとっては、タイガースOBという感覚であった。

解説者としての加藤博一氏からは、あまり切れ味を感じられず、決して好きな解説者とは言えなかった。

しかし、現役選手としての加藤博一氏に関しては、ひとつ、強く印象に残っている出来事がある。

あれは1980年だったか、1981年だったか。
後の1990年代の暗黒時代ほどではないものの、この頃の阪神タイガースも低迷時代にあった。

ある時、打線が不調で数試合連続完封され、30イニングばかり連続無得点を記録したことがあった。

その連続無得点に終止符を打ったのが、加藤博一氏のランニングホームランだった。

たまたまラジオで中継を聞いていた私は、すごく興奮したのを覚えている。

正確な数字を確認しようと、先ほど検索してみたが、まるで引っかからない。

ただ、一人だけだがこのことに言及している人がいたので、私の記憶違いではないはずだ。

確か私の記憶では、この試合、このランニングホームランの1点だけしか取れなかったはずで、これがなかったら連続無得点記録は続いていたところだった。

その意味で、タイガース史上に残る大仕事をしてくれた選手なのだ。

それだけで、私にとっては忘れ得ない選手である。

ご冥福をお祈りしたい。

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January 16, 2008

七人のハムラビ

てんで勝手に七種類も法典を作るな!

昨年の暮れに「ブレードランナー」のコレクターズボックスを購入した。
「ブレードランナー」の現存する5バージョンを全て収録したという触れ込みのものだ。

買ってすぐに、まずはオリジナル劇場公開版を観る。
というのも、所持しているビデオテープ(初めて買った映画のソフトでもある)にカビが生えてしまって、かれこれ10数年観ていないからだ。

で、昨日、今度はワークプリント版を観てみた。

ワークプリント版というのは、「メイキング・オブ・ブレードランナー」(ポール・M・サモン 1997年 ソニー・マガジンズ)という本によれば、1982年3月5日にアメリカ・コロラド州デンバーで、翌6日にテキサス州ダラスで行われたリサーチ試写の際に上映されたもので、関係者以外の一般客に対して公開された「ブレードランナー」の最初のバージョンにあたるものだという。
この試写の際の観客の反応およびアンケートの結果から、劇場公開版にあるデッカードのモノローグと俗に言う≪ハッピーエンディング≫が付け加えられることになったという、いわくつきのバージョンである。

なるほど、映像にせよ、音声にせよ、劇場公開版とはかなり違いがある。

映像面から見ると、あからさまな違いが2点。
オープニングとエンディングだ。

オープニングは、タイトル文字の出方が、まず横線が現れて、シャキーンという金属音とともに、その上下に文字が現れる、というもの。
その後に、架空の辞書の≪レプリカント≫の項目という設定で、≪レプリカント≫について説明した文章が現れる。
劇場公開版のように文字が下から上に流れていくことはないし、文中にはレプリカントとブレードランナーの関係を説明した部分もない。

エンディングは、もちろん≪ハッピーエンディング≫がない。

その他の映像の違いは、つまり、劇場公開版には無い映像があるか、劇場公開版にはある映像が無いか、ということだが、そのパターンには、同じカットだが編集点が違うので余分に映像が映っているものがあれば、シーンは同じだが別の映像に差し替わっているものもあるし、カット自体があったりなかったりするものもある。

そんな数多い違いの中で、なんといっても、一番注目したのは、デッカードが最初に登場するヌードル・バーのシーン。
日本人にとっては最も印象深い「2つで十分ですよ!」のシーンだ。
劇場版にはデッカードの注文した料理は映らない。
そのために、何が「2つで十分」なのかわからなかったのだが、ワークプリント版にはそれが映っているのだ。

ん?なんだこりゃ?

上記の本では、「大エビ2尾、ヌードル、山盛りのライス」と記述されている。
だが、実際に映っているものは、ちょっと違っている。
上の記述では3皿提供されているように思えるが、見えるのは2皿だ。
1つは当然ヌードル(ま、皿じゃなくて碗だが)。
もう1つには、皿の半分にご飯が盛られ、もう半分に何か野菜炒めのような惣菜が盛られている。
ご飯にかかっているのかもしれない。
そして、その上に黒く細長いものが2つのっているのである。

当然、「2つで十分」なのはこの黒いものだろう。

しかし、どう見てもエビに見えない。
まあ、これを準備したスタッフが「あれはエビだ」と証言しているのでもあれば、エビだと信じるしかないが、映像を見る限りでは、どう考えてもエビではない。

私には、ナスに見える。
いや、絶対ナスだ。
断じてエビじゃない。

ということで、私の結論は、「2つで十分」なのはナス、である。

一方、音声面の違いは、何と言っても音楽が違うことである。

なんでもヴァンゲリスの音楽製作がスケジュール的に間に合わなかったので、仮の音楽をあてて試写したらしい。

それだけで映画の印象が随分変わる。
SF的というよりは、サスペンスものみたいな感じを受けてしまう。

音楽といえば、レイチェルがピアノを弾くシーンがあるが、そこの曲はメロディは同じだが、キーが低い気がする。
劇場公開版では転調したのだろうか。

劇場公開版にあるデッカードのモノローグは、もちろん無いのだが、実はワークプリント版でも1ヶ所だけモノローグが入っている。
なぜかロイがデッカードの命を助け、そのデッカードの前で死んでいくシーンである。
ただし、セリフは違う。
ワークプリント版の方が少々くどいし、説明的だ。
劇場公開版の方が印象的だ。
それにワークプリント版では、ここにしかモノローグがないので、唐突な感じは否めない。

ここだけでなく、セリフが違う場面はかなりある。
特に気になったのは、ブライアントがデッカードに事件の経過を説眼する際に、「6匹のレプリがタイレル社に侵入しようとして、2匹死んだ」と話していることと、ロイがタイレルに対して「もっと生きたいんだ」と言うところで、最後が“fucker”ではなく“father”になっていること。
特に前者は、劇場公開版では「1匹死んだ」と話していたため、説明と映画に登場するレプリカントの数が合わないと言ってしばしば議論になってきた部分である。

しかし、まあ、一応は一般観客に見せるためのもののはずなのに、編集が荒っぽい。

既に触れたカットの長さの問題などは、十分な推敲をしていない結果としか思えない。
画面の明るさや色のトーンも統一されていないし、そもそも暗い。
また、音声も、この場面で聞こえるべきではない音声が聞こえる場面があったりする。

作業途中の仮編集フィルム、ということなのだろう。

事前の情報なしでこれを見たら、観客が混乱するのも無理はない。

リサーチ試写とは言え、こんな未完成品を見せてしまったことが、その後の迷走の原因なんじゃないか、という気がしたのであった。

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January 12, 2008

滝川不倫してる?

「滝川クリ○○ス」ではシモネタ過ぎるし、たぶん既に誰かが考えついていると思うので、こっちにしてみた。

もう1本はこれ。

「ナショナルトレジャー リンカーン暗殺者の日記」

ベン(ニコラス・ケイジ)とパトリック(ジョン・ボイト)のゲイツ親子は、自分たちの先祖=トーマス・ゲイツについて講演をする。
リンカーンが暗殺されたその夜、2人の男がトーマスを訪ね、ある暗号の解読を依頼したが、トーマスは彼らがリンカーンを暗殺したジョン・ブースとその仲間で、暗号が示す財宝を手に入れて南軍を再興しようとしていることに気づき、暗号を燃やしてしまおうとして、殺されてしまう。
トーマスのこの行動がなければ、財宝は南軍のものとなり、南北戦争の結果が変わったかもしれない。
そのように先祖を讃える親子に対し、1人の男が疑問を投げかける。
トーマスこそがリンカーン暗殺の首謀者である証拠がある、と。
その男=ウィルキンソン(エド・ハリス)が手にしていたのは、リンカーン暗殺グループが持っていた暗号の書かれた手帳から破り取られた1ページだった。
この新発見に世間は飛びつき、トーマスは暗殺の首謀者とされてしまう。
そこで、先祖に着せられたこの汚名を晴らすため、ベンはリンカーン暗殺グループが探していた財宝を見つけ出そうとする。

という話である。

ちなみに、ウィルキンソンの狙いは、そうやってベンに財宝を探させて、それを奪取することだった、ということになるわけである。

必要以上に残虐な「エイリアンズVS.プレデター」の後なので、すごくヌルく見える。
まあ、ディズニー映画だしね。

でも、そういう、家族みんなでリラックスして観られる冒険映画だって存在するべきだし、ヌルいことは悪いことじゃない。

悪いのは、中途半端なことだ。

ウィルキンソンは、元傭兵という設定で、ベンが発見した手がかりを奪うために銃撃してきたりするのだが、それってこの映画に必要か?

そういう暴力的な方法ではなくて、虚々実々の騙し合いで、出し抜いたり出し抜かれたりしながら、探し求める財宝に近づいていく、っていうので充分だったんじゃないのかなぁ。

それじゃヌル過ぎる、スリリングさが無い、ということなのかもしれないが、それを言うなら財宝探しのハードルが低すぎるという気がするぞ、そもそも。
財宝の手がかりがある場所がロンドンのバッキンガム宮殿とワシントンのホワイトハウスなのだが、ものすごくあっけなく忍び込んで、あっという間に謎を解いて手がかりを手に入れてしまう。
そこにこそ困難があり、それを乗り切ることにスリリングさが無いといけないはずなのに、そこが甘い。

ウィルキンソンにしたって、途中の手がかりの段階で銃ぶっ放して襲撃したんじゃ、肝心の財宝にたどり着けないじゃないか。

そうかと思うと、ラストの大事な場面では、こんなことが起る。

地下の遺跡に水が流れ込んでいて、一行は追い詰められる。
出口はあるが、誰かが遺跡内部に残ってそこにつながる水門を閉じないと、助からない。
つまり、1人は犠牲者が出る、というわけだ。
ウィルキンソンに脅されてベンがその役になるのだが、突然大きな水流がやってきてベンは水門の開け閉めをする取っ手の所から吹っ飛ばされ、逆にその場所にはウィルキンソンが取り残される。
ウィルキンソンは、「この遺跡の発見者の中に俺の名前も含めてくれ」と言い残し、1人遺跡の中に取り残され、命を落とす。

・・・って、ウィルキンソンは何がしたかったわけ?
なんだかちょっとイイ奴みたいで、すっきりしない。
死んでいくなら最後まで悪い奴を貫いてくれないと、気分が悪いよ。

銃撃してまで手がかりを奪おうとすることと、この死に方の整合性が、私の中ではつかないのである。

結局、全体的に、派手に見せ場を作ろうとして、無意味なことをしているようにしか見えない。

それはそれとして、タイトルが引っ掛かる。

邦題のサブタイトルは、上記の通り「リンカーン暗殺者の日記」なのだが、劇中に出てくるそれは、日記ではなく普通の手帳に見える。
もっとも、ウィキの記述を見ると、ジョン・ブースの日記というもの自体は存在しているようなので、まあいいのかもしれない。

それよりも、原題のサブタイトルとの相違が気にかかる。
原題の方は「Book of secrets」となっている。
つまり「秘密の本」である。

実は映画の中にちゃんと「秘密の本」が登場する。

歴代アメリカ合衆国大統領のみが閲覧することが出来る「秘密の本」というものが存在する、という設定なのである。
その中に、ベンたちが追い求める財宝の手がかりがあり、それを見るために現職大統領を誘拐するという挙に出るのである。

一方は物語のきっかけをなし、一方は物語の最後の決め手となる。
どちらをサブタイトルにしても、遜色は無いとは言える。

配給会社としては、「大統領の秘密の本」では何のことだかわからないので、原題を捨て「リンカーン暗殺者の日記」としたのだろう。
それはそれでひとつの見識であり、工夫だとは思うが。

でも、私は原題の方が好き。

ちなみに、探しているのは、アメリカ先住民の幻の黄金都市シボラの場所である。
それが何というか、マヤ文明のイメージなのである。
文字もマヤ文字みたいだし。

でも、最後にたどり着く場所はあのラシュモア山。

個人的には、少々違和感がある。
あれは北米の文化じゃないじゃないか、と。

まあ、いいけどさ。

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January 09, 2008

亜土桃山時代

「ああ、伏見城の襖が・・・・・・」
「キャッホー、素敵でしょ、亜土ちゃんの絵だよ」

昨年観た映画は19本だった。
岡本喜八監督作品やら、「ブレードランナー」「十三人の刺客」といった、気に入っていて何度も繰り返し観ているものを除いた、新しく観た映画が、ということではあるが、それにしても少ない。
おまけにそのうち劇場で観たのはたったの7本だ。

それはあんまりなので、反省して、新年早々映画をはしごする。

1本目。

「AVP2 エイリアンズVS.プレデター」

「エイリアン2」の原題が「ALIENS」だったのを思い出すな、このタイトル。

物語は、前作のラストから続く形で始まる。

前作の最後で宇宙船に回収されたプレデターの死体からエイリアンが誕生し、宇宙船に乗り組んでいたプレデターを倒す。
その戦闘で破損した宇宙船は、アメリカの田舎町の側の森林に不時着。
そこで人間を餌にエイリアンが増殖していく。
プレデターの母星でこの状況をモニターしていた別のプレデターが、逃げたエイリアンを始末するために地球に飛来する。
人間に次々と襲い掛かってくるエイリアンと、エイリアンの掃討のためには人間を犠牲にすることを屁とも思っていないプレデターの戦いに、田舎町が巻き込まれ、大混乱をきたしていく。

という話。

最近観たから言うわけではないが、なんだか「バイオハザード」(特に2作目)である。

エイリアンがどんどん増殖して、人間がどんどんやられていく。
生き残った人間が、市街地で銃などを用いてエイリアンと戦い、一部の人間は脱出の道を模索する。
最終的に、主人公たち数人だけが逃げのびて、町は核爆弾でエイリアンごと(もちろん他の生存者もろとも)焼き払われる。

まるで瓜二つ。

まあ、それを言い始めると、「バタリアン」だってそうだったし、他にも類例は見つかるだろうけど。

初めに、エイリアンに襲われる田舎町の人間模様を描いていくが、何となく「インデペンデンスデイ」みたい。
それはいいが、主人公格の男(泥棒らしい)が刑務所から町に戻ってくる一方、その弟はそのせいもあってかドロップアウト寸前で、女をめぐって同じ高校の生徒ともめているとか、女性兵士がこの町に住む夫と娘の元に帰還してくるが娘が夫になついて彼女にあまり近付いてこないとか、邪魔くさいよ、そんな話は。

しかも、そんなにまでしてキャラ付けをした登場人物を、あっけなく殺してしまうのだ。
それって、なんかヤな感じだ。

ヤな感じと言えば、いきなり子供が犠牲になるのは、気分のいいものではない。

子供は殺さないという古き良きハリウッドの不文律は、とっくに失われていることはわかってはいるが、これは残しておいた方がいい慣習だと思うのだが。
子供の腹を食い破ってエイリアンの幼生が出てくるのは、ちょっと観ていてテンションが下がるよ。

あと、妊婦も襲われるしね。
それどころか寄生されるし。

怪物同士のバトルに話を集中させて欲しいな、私としては。
気分悪いよ。

で、そのバトルの方だが、前作と違ってプレデターが強いのが良い。
そうこなくっちゃ。

なんぼ武器持ってんねん、っていうぐらい、色んな手を出してくるのも良いね。

ただ、描写が分り難い。
暗いし、カット割りが早いし。

おまけにプレデターに寄生して生まれたエイリアンは、プレデターと同じ≪髪形≫と口の形状をしているので、戦っていると、見分けがつけ難い。
しかも、プレデターの方も、そいつとの最後の戦いの時にはマスクを外して≪地顔≫で戦うので、なおさら分り難い。

日本人が監督した方が、もう少しマシなものになった気がしなくもない。
怪獣や怪人の扱いに慣れてますからな。

とか言って、具体的に誰とかいうのは、全く無知なのだが。

そうそう、ラストシーンに≪ユタニ≫という謎の女(日本人?)が出てくる。
続編作る気まんまんだな。
それもまた「バイオハザード」みたい。

で、私は「バイオハザード」同様、また観に行ってしまうのだろうか(苦笑)

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